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アスペと笑いは紙一重

 こんにちは、Bodayboと申します。私は究極の笑いはアスペと多動だと考えています。Mrビーンなんかは完璧に計算されたその笑いでして、本記事では彼の敬愛した「ジャック・タチ」と共に、それらの傾向と笑いの関係性について紐解いていきます。

 先日池袋新文芸坐にてジャック・タチのオールナイト上映を鑑賞したのですが、四作品からは彼の人生や苦悩の背景が感じ取れ、長編のドキュメンタリーを観ているようでとても面白かったです。
 長編第一作目「のんき大将脱線の巻」にて、タチは郵便配達員の「フランソワ」を演じます。このフランソワは典型的なアスペ君で、多動です。しかし、それは計算されたものなんですね。

 おおまかな流れとしてはフランソワをフランスの小さな街の住人がイジる、という流れなのですが、もの凄く愛されているんですね。憎めないキャラというか、ただ健常者がイジメるだけの笑いにはなっておらず、練られたショートコント集のような笑いが連続する映画です。
 個人的に印象的だったシーンに「より目おじさん」のくだりがあります。彼は常により目なので、正確な場所に釘を打てない。そこでタチがずらしてあげると刺さる、というくだりなんですが、今じゃ絶対に出来ない表現だよなぁと感じました。一体誰の為の人権団体なんですかね?
 この「ユロ」のキャラクター性を強くしたのが、「Mrビーン」です。

 タチの代表的なキャラクター「ユロ」が発登場したのが、「ぼくの伯父さんの休暇」。これはのんき大将の多動によるスピード感溢れる笑いとは打って変わって、いわゆるシュール芸というか、主人公「ユロ」によるキャラクター性自体の笑いへと変化しています。
 フランソワはいわゆる「つっこみ」のようなポジションとセットでの笑いなのですが、こちらはユロ単体でのお笑いなので、非常にテンポが遅く、傍から観れば異世界に迷い込んだ人にしか見えません。第三者は誰もユロにはつっこまない。要するに、ただのヤバイ奴なんですよ、ユロは。
 これらのことから、つっこみという普通の視点が加わらなければ、単なる異常者として消化されてしまう、ということに気が付きました。
個人的には前作の方が好きです。

 そして、一番有名な「ぼくの伯父さん」ですが、本作ではタチの天才っぷりが披露されます。それは、街へ迷い込んだ異世界人を、モダンへの皮肉に利用した、ということです。
 主人公の「ユロ」伯父の甥っ子は、父が化学製品の社長であることから近代化した家に住み、便利なもの=良いものという、モダンスタイルに囲まれて育ちます。それとは対照的な無職のユロは、仕事に追われ冷たい父と違いかまってくれるので、甥っ子が懐きます。
 前作では単なる異常者でしかなかったユロを、モダン化した社会に迷い込ませることにより、逆説的にユロが正常な視点とし、社会を笑いと共に風刺していく、というのは発想が天才的だと思いましたね。凄い。

 本作で学んだこととして、「幸せの定型化」に従っても、決して幸せを得られることはできない、ということです。どこかの誰かが言ったこれを買えば便利になる、だったりこれをすれば幸せになれる、という偶像は、必ずしも正解ではないということです。ブランド物等にも同じことが当てはまるかもしれません。
 それにしても、甥っ子がもの悲しそうに自動調理された朝食を前に頬杖をついてしかめっ面をするシーンは印象的ですね。個人的には、ガレージに両親が閉じ込められるシーンが一番好きです。

 そしてジャック・タチが10年と私財を費やした超大作「プレイタイム」
この作品はまた「ユロ」が加速した超近代社会に迷い込むのですが、本当に酷い。前作は笑いと皮肉の割合が絶妙だったので成功しましたが、何を思ったか2時間延々とモダンを批判する内容なんですよね。
 もう風刺どころか時代に取り残された老人の戯言でしかなく、モダンに幼少期を殺されたのか?と疑う程です。

 特に露骨なのが終盤に超近代化したレストランのセットをユロが壊すシーンがあるのですが、そのシーンを境に陽気なミュージックと共に役者が楽し気に踊りだし、あたかも「ね?モダンって悪でしょう?」と私たちに語り掛けてくるようでした。そして、街の住人が次々とおぁユロ!かつての友よ!と声を掛けてくるまるでなろう主人公のような顔の広さ。
タチは過去に囚われているのか?それとも、これも皮肉なのか?

 大物コメディアンはよく病んでいる印象ですが、やはり自分の生み出したキャラクターを周りにはあたかも主人格のように扱われ、そして世間が求める自分と主張したい自分にギャップが生じることから病むのではないか、ということがジャック・タチからは学ぶことができました。
 個人的には「のろま大将脱線の巻」が一番好きですし、それこそが素のタチなのではないか?と考えます。

 「火花」で自分のおもしろさを理解していない所がおもしろい、という表現がありますが、これはまさに「アスペ」芸的な部分に通じるものだと思います。変にそれを勘違いしてしまったのがタチですが、元々タチが表現したかったことは「プレイタイム」だったのかも知れないですし、コメディアンも難しいよな、と感じる今日この頃です。

冴えないオタクに幸を