【心の病と向き合う】―私見―人間には精神的な死と肉体的な死がある―自己育成プログラム―

本日の体調はいかがでしょうか

朝が辛い、昼間が辛い、夜寝る前が辛い、一日中辛い

人によって、また病によって、季節によって、潜んでいる心的要因によって等症状の出現する時間もさまざまであり、そのことによりその日の活動は大きく制限されてしまいますよね 。

病気そのもののもつ症状への苦しみ、それにより多くのことを受け入れることしかできず諦めなければならない苦しみ

更に病気であることを社会に言えないという三重苦の中を私たちは生きているのだと思います。

辛いですよね。

前回は、絶望との向き合い方についてお話をさせて頂きました。

【心の病と向き合う】理解者がいない  ―絶望との向き合い方 ―大きな孤独に苛まれた時 ―|ぼちぼち #note #note書き初め

私の意見はかなり偏向しており、また全てが科学的根拠に基づいておらず、納得できないことが多いかとも思います。

自分が見ているのが辛い、苛立ちを感じるようでしたら、
貴方の精神衛生上よくない状態ですので、今日はここまで
とし読まれるのを中断されて下さい。

貴方なんかにこの私の苦しみが分かるわけがない

まさにその通りです。

こんなに苦しんでいるのだから理解してほしい。

誰かに認めてもらいたい。

このしてほしい、してもらいたい要求を叶えたいのであれば

そう願う時の相手のお気持ちをまず考えてみられて下さい。

自分の意見の押し付けを望んで引き受けて下さる方など誰一人としておりません。
あったとしてもそれは一時的なものであったり、立場であったり、依存であったり、そういう関係性が成立している状況であるのではないでしょうか。

そして1つの要求が通れば次の要求も求めてしまうでしょう。

自分でさえこんなにも辛いのだから相手に打ち明けたらその相手はもっと辛くなる

私は辛いときこそより一層そう思うように致しました。

想像できるはずです。
貴方はとても心を痛めているのですから。

患者だから医師や看護師に何をいってもいいんだ
こっちはお金を払っているんだから

そう申す貴方は何をしに病院へ通っておられるのでしょう。

心を診てもらうためですよね。

自分のジレンマからくる八つ当たりを医師や看護師にぶつけるためではないはずです。

その医師や看護師も貴方と同じ゛血の通った心のある人間です゛

病気だから障害だからと何もかもが許されるわけではありません。
それでは自分の状況に甘んじていることになってしまいます。

そういった自分の特性を相手や世間に強要するのは止め

自らが作り上げたその心の壁(レッテル)を打ち破り現実と向き合われて下さい。

貴方が必死に頑張っているならば、頑張っても上手くいかなくとも、その頑張りや姿勢は言葉にせずとも相手には伝わるものです。

気付けるものです。

頑張らなくてもいいんですよ
貴方が貴方であれば

自分で自分を押し殺すこと
これだけはしてはいけません。

それは先に述べたような何でも言っていい状況とは違います。
自分をいたわる気持ち(愛情)のことです。

そして決してその自分を手放さないことです。
それをしないと軸がぶれてさらに相手の要望を聞き受けなければならない受け身の体勢となりますので、結果的に自分で自分の首をしめることになります。

人間不信であっても心のどこかで安堵する場所を求めているはずです。

自分が作り上げた虚像に縛られてはいけません。

相手を受け入れる→そんな自分をも受け止められたと

自分にできることを一つすつ増やしていって下さい。

自分が相手を脅かす存在となってはなりません。

貴方自身がそのことで苦しんでいるのであれば相手を思いやれている証拠です。

相手の重荷にならないこと、負担にならないこと

それを意識していると自他の゛境界線゛そして゛距離感゛を知覚として理解することができるようにもなってきます。

どこかで甘えたいという想いも出てくるでしょう。
その゛甘えられる゛ということを私が理解し獲得するまでの話はまた追々話していけたらと思っております。

以下は注意点として目を通されて頂きたく存じます。

*まだ現実と空想の境界が曖昧な方がおられましたら、これより先には進まないことを先にお伝えさせて下さい。

より混乱を招く可能性があるからです。

私を例えを出しますと、
・他人に感化されやすい
・物語に共感しすぎてしまったり、その世界観にどっぷりとはまってしまう

感化したことが自分にとっては至極まともで覚醒したかのような気分になるのですが、発言がその内容に染まりすぎていておかしかったようで私は読書禁止令が2度出ました。

上記に該当される方は慎重にご判断下さい。

さて、今回の本題に入ります。

全ての方に当てはまることではありませんが、私たちにとって必要なスキルはいかにこの゛人々が存在する、共存する世界゛の中で゛生きている人゛と対話ができるかです。

入りとしては、ご自身が体感されている゛現実゛と゛世界゛、゛現実社会゛とは別物だと考えて下さったほうがよいのかもしれません。

なぜそう思うのかというと、私自身の言葉として表現するに私は完全に゛あっちの世界゛にいってしまったことがあるからです。

そこは全ての感覚や思考をも存在しない空虚(虚無)の世界でした。

分かりやすくいうと幽体離脱のような状態です。

個体は一つであるのに意識と肉体が別に存在する。

心のない人形、魂の脱け殻です。

そこ゛にいるはずの私はから出てしまってそこにはおりませんでした。

その肉体に外から私が話しかけているといったような状況で完全に分離してしまっておりました。

そこからどうやってこちらの世界に戻ってきたのか

それまでどう過ごしていたのかという記憶は私にはありません。

恐らく出来ていたこととしては
通院はしていた。お風呂には入っていた。ご飯は食べていた。
トイレには行けていた。
であると思われます。

ある朝、出勤前の父から「いつまでも眠っているな」といわれ

その時感情が芽生えこちらに連れ戻されたという感覚です。

「あぁ、何かやらなければ」

人形に心(魂)が戻った瞬間でした。

今このように私がこの世で生きているということ

何よりもまず私は今の主治医との出会いに感謝をせねばなりません。

どんな時もいつも私のことを肯定し、また多くの助言を下さることで私はこのように一般社会でも健常者と同じように働けるまでとなりました。

人の死は二種類ある

それは精神的な死と肉体的な死である

あのこの世に存在しない感覚を経て私はそのように思うようになりました。

科学的根拠はありません。

自分の指令に動かない個体となる

それは主治医と出会うことになったある日の朝のことでした。

当時私は正社員として働いておりました。
大学病院(精神科)に通院中で日中瞼が勝手に下りてくるという症状に悩まされておりました。
いくら夜寝てもそれは起きました。

朝の目覚め
布団から起き上がりました。
感覚的には誰が動かしたのか分かりません。
そしてそこからは動きませんでした。

私がいない

いつも指令を聞いてくれる私がいない

動けと言っても動いてくれませんでした。

その布団から起き上がって動かない私をこの私が外から眺めておりました。

その時の感覚は無音で時間は止まっており
私の意思ではない何者かの影がのっそりと動くのです。
今思うと自分が自分を見捨てたのかもしれません。

「私もうダメみたい」

電話口の母にそう言おうとはしていましたがその個体が何を口にしていたのかは分かりません。
言葉になっていなかったのだと思います。

母にはすぐに迎えに行くからそこにいなさいと言われました。

そして、私は看護師長をしていた叔母の勧めで今の主治医と出会いました。

診察室に入るなり「うわひどい」と言われました。

受診前に寄った母の実家の祖母にも「うわぁ、どーしたんだ」と言われてました。

顔が歪んでいておかしかったのだと思います。

主治医の「うわひどい」の第一声

その一言で私は「あぁ、もう頑張らなくていいんだ。やっと認められたんだ」と、その時私の心が救われたことは今でも覚えております。

入院を勧められましたが付き添った母が断りました。

母がそういうだろうことは予測できました。

そこから私は今の主治医の助言を受けながら自分を救うという作業を始めることになりました。

肉体は滅ばずとも精神は滅びる

もし貴方が何かの絶望にうちひしがれているなら

大病を告知され苦しんでいるのなら

精神は一度死ぬんだ

そう思ってください。

肉体が先に滅びるか
精神が先に滅びるか

その違いです。

死は1つではなかった

それが私の私見です。

もう1つの命がまだ残っていたのです。

そして、今から心の病を克服しようと考えてらっしゃる方へ

感覚的にお分かりになるかと思いますが

それは自分の傷口をえぐる作業になります。

自分に痛みを与え続けているその本質から目を背けずに掘り下げていかなければなりません。

大きく分けて私が取り組んだことは

・トラウマに起因した恐怖
・発達段階でのつまづき

になります。

赤ちゃんは言葉を知りません。

なぜ泣くのでしょうか

それは心が痛いから痛くて泣いているのではないか?

と最終的に0歳まで遡った私は思いました。

心が痛いとはどんな時なのか

寂しい時
悲しい時
誰かに側にいてほしい時

誰かを、母を求めている時なのではないでしょうか

そのような想像を通して私なりに赤ちゃんの気持ちを理解致しました。

そして

私は゛この子゛を育てていこう

何があっても

そう思って今に至っております。

また長くなってしまいましたね。

これが今の私の原点であり自分で自分を育成していくこととなった経緯です。

今の自分をそれをよしとするならそれでいいのですよ。

ただ少しでもよくなりたい

誰かと心を通わせたい

そう望むのであれば貴方は自分の傷口をこじ開けなければなりません。

私は発達段階において獲得すべき課題を自分に獲得させることで1つ1つ課題を消化させてきました。
まだ発達途上です。
この先もどのような危機や試練がこの身に訪れるのかは分かりません。

その課題をクリアすれば精神年齢が上がって大人の自分に近づけるのかといったらそれはまた違いました。
更に深いところでつまづいていたという現実を知ることにもなります。

先の記事でも触れさせて頂きましたが、結局は自分がどうしたいのか

それによりその後の予後の症状が大きく左右されてくるように思います。

貴方ならどうされますでしょうか。

その決断は自分で自分を生きるという大きな決断となります。

そして自分で決めたからには当然責任が伴います。

その一歩を踏み出せるか

その一歩が自立への第一歩となるのです。

貴方にだってできますよ。

なぜならこの私に出来たのですから。

強く生きましょう。
強くたくましく地に足をつけてしっかりと歩くのです。
そして笑うこと。

私たちはこの地上に誕生したのですから。

今日も貴方が自分のことを愛せますように

誰かのことを案じれる貴方であれますように

このブログから祈っております。

ここまで読んで下さって誠にありがとうございました。

貴方に多くのご多幸が訪れますように。

今宵瞼を閉じ眠りの世界へと自己を誘えますように。

それではまた次回お会い致しましょう。

By ぼちぼち

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