太陽の入らない部屋に引き篭もった。 頭も体も怠くて動くのも喋るのも億劫で。 同居人には赤ん坊扱いされ滅入っていた。 滅入るのは被害妄想に入ったせいかもしれない。 本当は優しさなのかも何なのかも考えれなかった。 今は気怠い体を起こして部屋のカーテンを開けている。 頭痛が潮が引くように遠のいていく感覚がして気持ちいい故この感覚を書き記しておきたかった。 医者から呪文のように太陽を浴びろと言われる理由を体感した。 あと4時間程で今日以降の行動が決まる。 当選の文字を見た瞬間
今日は予定を二つも没にしてしまった。 低気圧や疲労が相まったのか久々にソファに溶ける一日。 最近は罪悪感を常に抱えて生きている。 罪悪感を具現化したら私になるのではと言う程罪悪感を抱えやすい人間なのもあるが、複数の罪悪感を一気に抱えるのは体が重い。 体重も増えていた分実質的にも重い。 謝れば罪悪感が軽くなるのは知っているが、軽くなるのは自分だけだと言うことも知っている。 謝罪する事で相手に迷惑をかけたり逆に傷つけてしまうケースがある事も数年前に学んだ。 自分が軽くなるた
生きてる意味は?何のために生きてる? そう聞かれた。 少し前まではBUMP OF CHICKENが生きる意味でライブに行く為に生きていると答えていた。 でも最近は違うなと。 過去に何度か自殺未遂を起こしている。 結論死ぬ勇気がないのだ。 BUMPのライブが決まれば「その日まで生きる」と言いふらしそれを死なない理由ではなく死ねない言い訳にしていた。 昨日BUMPのライブを終えた今、じゃあ今から死ねるかと問われたら口籠る。 ただ格好つけてライブを良い口実にしていただけだ。
歌詞を書いた。 別に私は作詞家でも無ければ音楽家でもない。 ただ書きたいという衝動に駆られた。 この歌詞に音をつける技術も無ければそもそもメロディも思い浮かばない。 ましてや歌うなんて嘲笑われる。 お蔵入りだが初めての作詞に少し気が緩んだ。 完全オリジナルな歌詞とは言えBUMPの影響をもろに受けているのが聴く人には分かってしまうだろうなと思う要素が散らばっている。 BUMPの歌詞を何年も聴き込み意図を探っては考察する事を続けてきた身としてはBUMPの色が出てしまっても仕方な
神戸児童連続殺傷事件の犯人である酒鬼薔薇聖斗の記した「少年A」を読んだ。 この本がマスターベーション本だと言われる理由が分かった。 少年Aの犯行までの生活や犯行の様子、犯行後の生活、そして被害者や遺族への想いを独特な比喩表現を交えて美しい文章で昇華し自身に陶酔していた。 反吐が出る。 犯罪心理を覗きたかった点で言えば読んだことに後悔はないが、正直腹の虫の居どころが悪かった。 被害者遺族はこんなものを無断で出版され贖罪の印税も受け取らずどういう心境に陥っていたのだろうか
Enfantsのライブに行った。 ワンマンではなくYOWLL主催のライブ。 LAMP IN TERRENだった頃はよくライブに足を運んでいたがEnfantsとしてライブに行ったのは初めてだった。 テレンの曲はもう二度と生で聴けないのか、と解散当時落胆していたがEnfantsでバリバリ鳴らしていた。 相変わらず松本大は凄まじい。 4組いたバンドのうち一番ステージの上で遊び音を楽しんでいたように見えた。 どのアーティストも退屈には感じず目も耳も釘付けになっていた。 その中で
死なないで欲しい そう言う人は何人かいた。 絶対に死なせない、と強く意気込まれたのは初めてだった。 命ってそんなに重い? 私からの問いかけにもシンプルに頷いた。 私は3日間地元から離れた大都会にいたがその間に私のすぐ側で一人は高所から飛び降り一人は人生舐めるなと叫び人を刺した。 ゴミの掃き溜めのような澱んだ町で軽々しく飛び交う命を目の当たりにもした。 それでも命は尊いらしい。 私を忌み嫌い切り離す人も増えたが同時に大事に思ってくれる人も増えた。 自分に言い聞か
深夜の戯言と題したものに今年中に死にたい旨を書き記した。 撤回させてもらいたい。 つい最近私の愛するBUMP OF CHICKENが来年からのツアーを発表したのだ。 ツアー名は「ホームシック衛生 2024」。 以前「ホームシック衛生2008」というツアーがあった。 メンバーが28歳の頃に行ったライブで、来年のものは結成28年に行われるツアーである。 28年というのは公転周期、つまりorbital period。 行かない理由が見つからなかった。 そこで飴玉の唄など歌われ
“湖の見えるタンポポ丘の桜の木の下で 手頃なヒモと手頃な台を都合よく見つけた 半分ジョークでセッティングしてそこに立ってみた時マンガみたいな量の涙が溢れてきた” 敬愛する藤原基央が歌う歌詞。 私は実際このタンポポ丘に足を運んだ事がある。 そこに紐や台なんて転がってはいなかった。 歌詞なんてどこまでがフィクションでノンフィクションなのかは聴き手には不透明だ。 ただ昔は自殺の名所と呼ばれていたらしいその公園に当時手頃なものが転がっていても不思議ではないのだろうと想像する。 そ
今年中に死ねますように それが今年の初詣で手合わせて願った事。 神様なんかがいるんやったらもうすぐ私は死ぬんやろうな。 今年も残り2ヶ月を切った。 もしかしたら明日通り魔に刺されるかもしれんし数分後に大きな地震が起こるかもしれん。 希死念慮が自殺願望に変わる事も。 まだ期待は捨てきれん。 神様頼むわ、無神論者やけど。 ため息しか出ん。 遺書も用意してある。 準備万端やん。 そこに大事な人5人の名前を書いた。 そのうちの2人が同じく死にかけで私より先いってまうんやないか
電車に揺られながらamazarashiの少年少女を聴いていた。 人目さえなければ感情が流れ出ていたかもしれない。 望んだように生きられないなら死んでんのと同じだ 雨曝しにあっても、それでも、というところを歌う秋田さんの口から溢れる言葉達は鉛のように重く体にのしかかり心を侵食していく。 最近の自分は真っ白な体内に墨汁が一滴一滴滴るような感覚で毒素が蓄積されている。 この感覚は他人にもあるのかは分からないが、ふとした瞬間に あ、毒が滴ってる と昔から比喩している。 そこに
ジェンダー的なことを少し。 時代と共にLGBTQへの理解が深まりつつある日本で、徐々に生きやすく変化した男女は多いのだろう。 僕は女性として生まれた。 心も体も女で性自認も女。 …のはずなのにどこか違和感を抱いて生きている。 男性への憧れは強いが男性になりたいわけではない。 その反面女性でいたいわけでもない。 男性にも女性にもなりたくないのだ。 恋愛対象は正直どちらでもある。 バイセクシャルというやつか。 実際過去に同性に惚れ込んだ経験もある。 交際したのは全員男性だっ
昔当時好きだった人の家でRADWIMPSのライブ映像を見て、棒人間を聴いて泣いた。 RADの曲で泣いたのはこれが初めてで、後にも先にもこの一曲だけ…と言いたいところだが君の名は。の劇中でRADが流れた際にもあまりの美しさに泣いた。 One man liveを聴いた際もそう言えば泣いてた。 が、これらは例外にしたい。 私はRADWIMPSのファンではなくただのリスナーである。 そのただのリスナーである私を唸らせたのが棒人間という曲。 衝撃だった。 この歌詞があまりにも私を表
幾度となく呼吸を止めたくなる瞬間は訪れるもので、頭をよぎるのはBUMP OF CHICKENのギルドから それでも呼吸が続くことは許されるだろうか のワンフレーズ。 自己肯定感の低いボーカル藤原基央の人間味が溢れ出ている。 自分にも問うてみる。 きっと周りは許すだろう。 だが自分自身が許さないことは明白だ。 生きてる意味や価値なんてそこら辺に生えている雑草にだってある。 忌み嫌われがちな虫ですらその命は決して無駄ではない。 何者にもなれない人間でもそこに意味や価値を
「信じる」とは。 人は何をもって対象の相手を信じると言い切る事ができるのだろうか。 「信じる事」をテーマにした作品にはいくつか触れてきた。 印象に残っているもので小説や映画化もされた “怒り“という作品を例に挙げる。 私はこの作品が大好きで小説も映画も何度もインプットしている。 信じていたのに裏切られた 信じてくれたのに裏切ってしまった 最後まで信じきることができなかった 3人のそれぞれを描いたストーリー。 どの“信じる“も胸が痛んだ。 印象に残っている言葉は お前俺
米津玄師の空想というツアーに行った。 米津玄師のライブは何回目だろうか。人生初ライブも米津玄師で、最前列だったのは今この絶大なブームメントを起こしている彼のライブからは考え難い。 流行る前から好きでしたというマウントと自慢。 今回のツアーで一番衝撃だった曲はNighthawks。 米津玄師のライブに行ってBUMPのフレーズが聴こえた時は何事かと思った。 好きが高じて幻聴でも聴いてしまったのかと錯覚したが隣にいた友人と目を見合わせて現実である事を認識した。 友人も私と同じ米津