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読書記録 | 小山清の自伝的小説「落穂拾い」から感じるささやかな日常の風景と慈しみの情

 もし、私の記事をご覧下さっている方が居られるのであれば、なぜ今更旧い小説ばかりを貪るように読むかという事を感じるかもしれない。

 現代の小説、昔の小説(所謂、近代文学)はどちらも同じ小説で創作というものであるが、私個人として両者が明らかに違うと感じるものが幾つかある。

 たとえば、後者は文でしか表現出来ない人間の普遍的な部分や情緒、感情の機微がある。

要は活字でしか感じ取ることが出来ない作者の生活や人生から来たものが、心や感情に訴えるものがあるので、まったく流行り廃りがないのである。

 あくまで私の視点であり偏見でありすべてではないのであるが、前者はその反対に近く自らの経験とはかけ離れた流行り廃りを、まるで漫画を活字にしたように書き、あわよくば映像化という露骨なものさえ感じられることもある。

要は魂や信念を感じにくいのである。

 ただそれは、昔と現代では生活様式や考え方も異なるため、文学が廃れたように見えてしまうことも仕様のないことかもしれない。

 閑話休題──

 太宰治の門弟、小山清の小説をちびりちびりと読んでいる。

 以前通読した「メフィスト」が、小山さんのちょっぴり悪戯心の見える一面が滑稽な作品であったのに対して、今回読んだ「落穂拾い」は小山さんと周囲の人とのやり取りや人情を朗らかに綴った、一種の自伝小説の態で書かれたもののように思われる。

 まさに「襤褸は着ても心は錦」という言葉が合った作品で、特に当時貧しかったであろう小山さんと古本屋経営の娘さんとのやり取りは心温まるものがある。

 娘さんに「おじさん」と呼ばれる小山さんの心情が、なかなか滑稽でもありちょうど私の世代頃の共感を呼ぶものがある。

 一見するとあまり小説家のように思えない小山清さんであるが、その作品の中にはささやかな日常の歓びと素朴さ、それからささやかな慈しみの情に加え、師匠太宰治への愛をそこはかとなく感じるものがある。

 なぜ、そんなにちびりちびり読むのかということには、ただ良い作品を早く読んでしまうのは勿体ないという貧乏臭い根性からである。


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