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プレイヤーズヒストリー 青山竜也編

「人生のターニングポイントは?」と問われたら、その出来事や特定の人物の顔・言葉が思い浮かぶだろうか?考えてもなかなか答えが見つからない人、瞬時に思い浮かべる人もいるだろう。

「人生のターニングポイントは?」
青山竜也に問うと、迷いなくあの未曾有の大震災を挙げた。
2011年3月11日 東日本大震災。

あの日、青山は宮城県仙台市にいた。自らも被災した。1ヶ月間、東京の親戚の家に身を寄せる中、震災で命を落とした知人の告別式に出席した。そこで聞いた喪主の言葉こそ、青山がフットサルに打ち込む決断に至った〝ターニングポイント〟だったという。

【プロフィール】
青山 竜也(あおやま たつや)
1992年3月11日生、福島県いわき市出身
2020年 ボアルース長野加入
今シーズン限りでの引退が決まっている。
【所属チーム】
古河電池FCJr
いわき市立中央台南中学校サッカー部
BANFF SENDAI
フウガすみだバッファローズ
フウガドールすみだ
バルドラール浦安
ボアルース長野


福島県いわき市出身。2人兄妹の長男として生まれた青山は、物心ついた頃から母方の祖父とボール遊びをしていた。「両親が共働きだったので、よくじいちゃん家に預けられていました。行くと必ずポテトチップスとサイダーをくれたので、コロコロ太っちゃって(笑)」。祖父と楽しげに遊ぶ様子を見た母・真弓さんが「蹴るのが好きだったらサッカーでも始めたら?」と勧めたのが地元の少年団に入ったきっかけだ。


小学5年生の時には県屈指の強豪クラブ「古河電池FCジュニア」に移籍。6年生の時には全国少年サッカー選手権にも福島県代表として出場を果たす。
「ポジションはセンターバックからスタートしてボランチもやりました。ポテチ効果で本当に肉団子みたいにコロコロしてましたけど(笑)後ろからがむしゃらにドリブルして、ロングシュートやミドルシュートを打つのが好きでしたね」。

小学生で全国まで経験した青山。当時の夢はサッカー選手と思いきや「一級建築士ですね!古い家とかをリフォームするテレビ番組の影響です(笑)」。どうやら青山少年、当時の流行りやテレビの影響を受けやすかったようだ。「身体だけじゃなくて将来の夢も、〝コロコロ〟変わるので友だちに『やりたいことコロコロ変わってんじゃん』と言われて傷ついたこともあります(笑)」。

とはいえ、サッカーをないがしろにしていたわけではない。中学生になると古河電池ジュニアユースに昇格。全国大会出場効果もあって、他のチームからも県トレセンメンバーがこぞって入団してきた。すると、どんなに努力しても頑張っても試合に出られない。ベンチを外れることも多くなった。「初めての挫折でしたね。好きでやっていることだけど楽しくなくなって、ふてくされていたこともありました」。


考え抜いた末の決断は、中学校の部活に移籍することだった。すると「楽しみながら自分のプレーができるようになりました。腿は他の人の倍ぐらいあったので、ロングシュートとかも決めていました。そうしたら中3で市のトレセンにも選ばれるようになりました」。

部活での活躍もあって、いわき光洋高校にはサッカー推薦で入学。しかし、ふつふつと湧いてきたのは、中学途中でまで在籍していた古河電池の仲間へのコンプレックスだった。「高校の部活は地区予選で負けるぐらいのレベルでしたし、熱量の差もあって朝練に出る人もほとんどいなかったんです。それで古河の仲間たちを思うとコンプレックスを感じたり、見返してやりたいと思って過ごしていました」。

小学生の頃、一級建築士になりたいと言っていた青山が、「プロになりたいかも」と初めてサッカー選手を意識したのも高校3年生の頃だ。そんな時、コンプレックスを抱いていたあの古河電池トップチームの総監督から電話が来た。「古河は中学で辞めていたんですけど、総監督がずっと気にかけてくれてたみたいで。サッカーを続けたいと思っていると話したら、『うちでやってみないか?』と声をかけてくれたんです」。昼間は古河電池の工場で働き、夜に練習をするという東北1部の社会人チームだ。1度は去った強豪クラブからの連絡に舞い上がった。

しかし、青山の人生はすんなりとはいかない。「また別にやりたいことが出て来てしまって・・・」。高校を卒業するまでの間、結婚式場でアルバイトをし、初めて会った新郎新婦のエンディングムービーを見ては涙していた。「めっちゃいいなって感動して、なんて素敵な仕事なんだろうと思って。自分の活力にもなるし、人の幸せが自分の幸せなんだと気づきました」と、今度はウエディングプランナーになりたいと決意する。その思いはすでに、サッカー選手を上回るものになっていた。両親に相談すると「本気で目指しているなら」と背中を押してくれた。「やりたいこと、コロコロ変わるね」と友だちに言われ、傷ついたのもこの頃だ。

確かにコロコロ変わったかもしれないが、1度固めた決意は固かった。古河電池への入団を断り、ウエディングプランナーを目指して高校卒業後に宮城県仙台市にある専門学校へ進学。学校での模擬挙式で自らが新郎役を務めたことも(写真)。


次々と単位や資格を取り、夢への道を進む中、芽生えた気持ちは「すごく太りやすかったので、運動不足を解消したいな」。思ったら即行動。市内のスポーツショップの店員に「身体を動かせる場所はないですか?」と聞いてみた。その店員こそBANFF SENDAIという当時東北1位のフットサルチームの選手だった。運命とは面白いものだ。1度離れたはずのサッカーだったが、今度はフットサルという形でボールを蹴ることになる。連れて行ってもらったフットサル場には、施設長としてBANFF SENDAIの総監督山田真さんがいた。初めての練習がいきなりの練習試合。こてんぱんにされたが「めっちゃ面白いじゃん!」と思った。最初は週1回の練習参加が次第に週2回になり、毎日になり、チームの一員として公式戦にも出場するようになる。
「フットサルはゴールが近いし、狭いからこそ頭を使ってスペースをつくり出す面白さを感じました。一方で先輩たちの技術の高さにびっくりしました。サッカーでは経験しなかったパスの通され方をして失点し、悔し涙を流したのも覚えています」

チームメイトの中にはキャプテン遠藤正喜さん(現姓:伊藤)もいた。



当時は夜9時から11時の練習だったが、メンバーの多くは仕事で5,6人しか集まれない
日も多かった。「練習が始まってもグダグダしていると、キャプテンの遠藤さんが怒って1人で街中に走りに行ってしまったのが印象に残ってます(笑)。僕は学生でしたし食らいつくのに必死で一生懸命やっていました。そんなキャプテンも、たまに奥さんが迎えに来るとチームにいる時の顔と違って幸せそうでしたね」。

青山は学生ながら、遠藤さんとともに宮城県選抜にも選ばれるようになり、心が揺れ始めた。「ウエディングプランナーもいいけど、土日も仕事に出ないといけない。そうするとフットサルの試合にも出られないし、好きなこともできない。ちょっとそれはきついなぁ・・・」。次第に深夜1時ごろまでフットサルの練習をするようになっていた。ウエディングプランナーかフットサル選手か・・・。迷い始めていた専門学校1年の終わりに、〝ターニングポイント〟となるあの出来事は起きた。

2011年3月11日。くしくも19歳の誕生日だった。
午後2時46分。東日本大震災。
「横揺れから跳ね上がって縦揺れになって。その後はサイレンが鳴りっぱなしでした」。青山は、取り急ぎ家族に無事を伝えることができた。家族からは「明日迎えに行くから」。短いやりとりを済ませ、その夜は毛布や食料をかき集めて避難所に向かった。避難所にあったテレビには、目を疑うような映像が次々と映し出された。「情報がずっと流れ続けていて、どんどん心がやられていきました、怖かったです」。

そんな中、宮城県南三陸町の防災庁舎の2階から防災無線で地域住民に最後まで避難を呼びかけ、津波の犠牲となった女性職員のことが、取り上げられていた。自らの命を犠牲にしてまで多くの命を救ったことは、多くのニュースで賞賛された。その職員こそ、キャプテン遠藤選手の妻・遠藤未希さん(当時24歳)だった。

4月、未希さんの告別式で、夫・遠藤選手の挨拶に心を動かされることになる。

『私たちが生きているきょうは、誰かが生きたかった明日です』

青山の脳裏から離れなかった。「人間、いつ死んでもおかしくない。今、自分は何をしたいんだろうって本気で考えるきっかけになりました。後悔はしたくない。ウエディングプランナーは40歳になってからでも出来るけど、フットサルは今しか出来ない」。

青山は専門学校を退学した。フットサル場で働きながら、BANFF SENDAIのアマチュア選手となった。当時19歳。キャプテンの言葉を聞いたその日から、青山の夢が変わることはもうなくなった。仙台で1年間プレーした後、「プロ(契約の)選手になりたい」とフウガすみだバッファローズのセレクションに挑戦し、サテライトチームの合格を勝ち取った。
トップチームへの昇格を目指し、練習に明け暮れる中、椎間板ヘルニアに襲われ、半年以上練習が出来なかった。それでも「プロのフットサル選手になる」という夢を諦めなかった。すみだに移籍から1年半後にトップチームに昇格し、夢のFリーグ選手になった。

ボアルース長野に移籍したのは2年前の27歳。クラブから「Fリーグ1部での経験を長野で伝えてほしい」と託された。今シーズン途中からは、自らキャプテンマークをつけることを申し出た。「フットサルが本当に楽しくて今までで一番充実し、熱くなれたんです」。

先月30日、F1リーグ最終戦。最下位ボアルース長野はF1残留をかけて、名古屋オーシャンズと戦った。この大一番で1ゴール1アシストを決めたのこそ、青山だった。「大一番で結果を出せたのは今まで一生懸命頑張っていたのを、フットボールの神様が認めてくれたのかなと勝手に思いました(笑)」。しかしチームは3対4で破れ、F2との入れ替え戦でF1残留をかける。



現在29歳。19歳でフットボールに打ち込むことを決断したあの時から10年が経っていた。
小さな頃から色んな夢を描いてきたが、青山はその度に「やりたいって言ったことに対して、いつも行動は起こしてきた」。そして19歳で遠藤正喜さんの言葉を聞いたあの日から、「人間、いつ死んでもおかしくない。自分は今一番何をやりたいのか?」と考えに考え抜いた。フットサル選手という道を選び、駆け抜けやり抜いた。

そして来月30歳を迎えるのを機に下した新たな決断とはーー。
今シーズン限りでの『引退』。

「福島県の実家が青山海事という海洋土木の会社を一族経営しています。親父がその専務です。親父は今58歳なのですが、今ならぎりぎり背中を見て仕事を覚えることも出来ますし、人脈も引き継ぐこともできます。あと1年フットサルを続けるかどうか悩んで親父に電話で相談をした時に『もう1年やりたいんだったらいいぞ!』とすぐに言ってくれました。ただその後、親父が初めて今までどんな思いで家族を思って仕事をしてきたかという話もしてくれて・・・自分も1月に結婚し、家庭を持つという状況で覚悟を決めなくてはと思い決断しました」。

30歳の決断――。それは父・隆さんの言葉を心に刻み、そして家族との将来を考え自ら下したものだった。

フットサル選手としてのラストマッチは全日本選手権。10年間積み上げてきた集大成の試合で、「ゴールした時の仲間の顔と、お客さんが立ち上がって興奮している景色を見たい。そして10年間やってきたフットサル人生に最後に大きな意味を残せるように、自分の力を全て出して勝利に貢献したいです」。

ライター:武井優紀

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