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プレイヤーズヒストリー 山蔦一弘 監督

大阪府出身。小学校からサッカーを始め、高校時代は京都府の強豪・東山高でプレーした。同校 は昨年度の全国高校サッカー選手権で準優勝しているが、山蔦氏が在籍した3年間は全国舞台 に恵まれなかった。卒業後は大阪産業大に進学し、サッカー部には入らず、周囲の誘いを受けて フットサルに転身。旭屋、CASCAVEL KANSAI(現CROTALO奈良)を経て、2007年のFリーグ発 足を機に名古屋オーシャンズへ入団した。

日本代表時の写真

Fリーグ発足前から日本代表に選出されて頭角を現した一方、2度の大ケガにも苦しむなど順風 満帆ではなかった。名古屋に入団してからも「どちらかと言えば点を取ることが仕事だったが、ブラジル人とポジションを争うこともあって、違いを見せないといけないと感じていた」。名古屋に在 籍した2年間は出場機会に恵まれなかったが、「良い環境だったし、監督から学ぶ部分もあった。 そこが指導者としての最初のルーツというか、フットサルをより深く考えさせられた」とポジティブに振り返る。
その後はデウソン神戸、アグレミーナ浜松、バサジィ大分と、計4クラブを渡り歩いた。

バザジィ大分在籍時の写真

日本代表への復帰こそ叶わなかったが、「(館山)マリオ監督、アジウ監督、比嘉さん(比嘉リカルド/現立 川アスレティックFC監督)...。すべての監督から学ぶことはあった」。
とはいえ、現役時代から指導者を志していたわけではなかった。「神戸のときに結婚をしたが、家 族はずっと名古屋にいて離れ離れだった。指導者になるために引退したというよりは、家族のこ とも考えての決断だった」
引退したのは2018年。そのシーズン(2017-18)は選手としてプレーしつつ、実質的に指揮官としての役割も担った。翌年に向けて監督就任のオファーも受けたが、家庭の事情も踏まえて大分を 去り、愛知県に拠点を移す。隣県で立ち上がったサッカークラブ・岐阜ユナイテッドでアカデミー チーフコーチを務め、指導者の道を歩み始めた。
フットサル界に復帰したのは、2021年12月。F1リーグで最下位に沈んでいたボアルース長野か らコーチとしてオファーが届き、シーズン終盤に加わった。長野がF1に昇格した2019-20シーズン の前にも打診を受けたが、「家族のこともあったので、まだタイミングではなかった」。引退後はF リーグの試合をいちファンとして追いかけ、フットサルの動向やトレンドはつかんでいたものの、「戻りたいとは思っていなかった」という。
それでも、土橋宏由樹GMを中心に熱心な誘いを受けた上、家族の後押しもあって一念発起。 2021-22シーズンの終盤、F1・F2入替戦に回ることが濃厚だったタイミングで、残留に向けた“救 世主”としての役割も託された。柄沢健監督体制のもと、コーチという役職ではあったが、実質的 に指揮を執ることとなる。

「(10月に)柄沢監督に代わってから、少し盛り返しているところもあったし、心を惹きつける試合 をしていた。僕としてはカテゴリーとか状況は関係なく、『長野だからやりたい』と話していた。次の年からスタートする可能性もあったが、土橋さんから『とにかく早くきてほしい』と言われたので、1月から合流した」
そもそも、なぜ山蔦氏と長野の接点が生まれたのか。それには神戸時代にチームメイトだった清水利生氏(2014年に現役引退)の存在がある。山梨県出身の清水氏は土橋GMと同郷で、土橋 GMが立ち上げたフットサルチーム・funf spielerにも所属していた。その清水氏の推薦もあり、長野からオファーを受ける形となった。
シーズン終盤に合流し、残されたリーグ戦はわずか2試合。そのうちの1試合は名古屋戦であり、自動残留は極めて厳しい状況だった。
「何かを大きく変えることはできないので、チームをしっかりと知りながら、結果にアプローチしていくこと。戦術的なところでのモヤモヤをスッキリさせることがメインだったと思う。その中でもパワープレーの改善は時間をかけて取り組んでいた」
結果的にはリーグ戦で最下位に終わったが、F1・F2入替戦でしながわシティに2試合合計4―4と ドロー。F1チームのアドバンテージによって残留を果たした。

「やれることはやったと思うし、選手たちが素直に取り組んでくれて、残留に対しての熱量が伝 わってきた。柄さん(柄沢監督)とかヨネ(米村)とはよく対話をしていたし、大分でチームメイトだっ た(松永)翔の成長も感じられた」
続く2022-23シーズンは、本格的に“実質監督”としてチームを指揮。柄沢監督のもとで培ってきた「群れになって戦う」姿勢をベースにしつつ、プラスアルファをもたらしていった。
課せられた使命は、最下位を脱出しての自動残留。指導者としての経験が浅い中で、決して簡 単なミッションではないが、新たに加わった山元優典コーチの存在も支えとなった。

山元優典 コーチ

現役時代に浜松と神戸で共闘した“相棒”。「本当に信頼できる先輩で、自分のこともよく知っている。現役時代 からストイックで、若手が一目置く選手だったので、若手を育てていく上でも最適な人材だと思っ た」と信頼を寄せる。
選手にも信頼を置く存在が加わった。山元コーチと同じく、浜松と神戸で共闘した田中智基だ。

田中智基 選手

神戸時代はその山本と田中とともに、3人で共同生活をした経験もある。とはいえ田中とは選手と指 導者という立場に変わり、「試合に出すとは限らないし、智基が僕のことを嫌いになるときも来る かもしれない。それはこの仕事をやっている上では仕方ないことだし、終わったらまた元に戻れ ば」と節度をわきまえた。
チームには38歳の田中をはじめ、頼りになるベテランもいる一方、全体的に若い選手が多かっ た。F1残留という目先の目標を追いつつ、若手の育成というのもタスクの一つ。サッカーからフッ トサルに転身して2年目のピヴォ・中村亮太を起用し続けるなど、個々の成長にも目を向けた。

中村亮太 選手

「彼(中村)は試合に出ることがほぼ1年目の中で、できることを最大限にやってくれたし、シーズンの中で成長を見せていた。そうやって選手が成長した中でも残留できなかったのは、単純に チームの力不足で、そこを引き上げられなかった僕の責任でもある」
昨季は序盤戦から古巣・大分との残留争いが続いた。第2節でエスポラーダ北海道戦を下し、F1 に昇格して以降最速となる初勝利を挙げたが、中盤戦には泥沼の10連敗。その波については 「勝てなかったときに進む方向がぶれてしまったり、自分たちのやっていることを信じられなくなっ たり...。そういうズレがなかなか止まらなかった」と悔やむ。
山蔦監督は現役時代、ムードメーカーとしてチームを牽引していた。その経験を生かしてチーム を鼓舞しつつ、意識したのは「自分自身がブレないこと」。メンバー変更や戦術の落とし込みにつ いて、一貫性を保ち続けていった。
終盤戦は自動残留に向けて“奇策”も図った。序盤からパワープレーとインプレーを使い分け、得 点を奪いに行きつつ、相手がボールを握る時間を意図的に減らした。「とにかく目標を達成するための戦術で、選手の成長というのは度外視にしていた」と、苦肉の策であることを明かす。その上で「掲げた目標を達成することは選手の自信にもなる。ミッションを遂行する能力を上げるという意味では、それが選手を成長させるとも思っていた」。
そのミッションも結果的には遂行できなかった。リーグ戦を最下位で終えると、F1・F2入替戦では 2年連続でしながわと戦い、4―8と敗北。5年ぶりのF2降格が決まった。
「降格したことには責任を感じているし、もっといいやり方があったかもしれない。その責任をどう 取るかと言えば、もう一度F1に上げること。それも十分に戦える力をもって上げることが使命だと 思う。とにかく前を向いて歩み続けるしかない」
残留に向けて大一番となったホームの北九州戦や町田戦には、1,000人を超える観衆が詰め寄 せた。

その光景を見て「長野のファン・サポーターは本当に温かい。僕は勝気なタイプなので、こ ういう結果なら罵声を浴びて当然だと思っているが、そんなこともなかった。いつもポジティブな声 をかけてもらって、逆にすごく申し訳ない気持ちになった」と話す。その期待に対して恩返しするためにも、今季はより一層結果にこだわる構えだ。
昨季の途中にB級ライセンスを取得し、今季は正式に監督という立場となる。主力選手の多くが 残留し、「『このクラブのために』と思ってくれた選手に対して、監督として覚悟を示したい」と語気 を強める。目標は言わずもがな、F2優勝とF1復帰。そのための道標として「チャレンジ」という言葉を掲げている。
「自分たちは成長しないと目標にたどり着けない。練習から変化することを恐れずに、ミスも恐れ ずにチャレンジしていくことは共有している。F1で4年間やったからといって、簡単に勝てるとは 思っていないし、F2でトップの力があるとも思っていない。目の前の練習と試合にどれだけ向き合 えるかが大事になる」
1年でのF1復帰、そしてF1定着へ――。山蔦“監督”の挑戦が、いま始まる。

ライター: 田中紘夢

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