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「ドット絵は身体に起因する技術に依存しない」についての解説


いつも応援いただきありがとうございます。びねつです。

今回は貴重なご意見をいただいたので、それに対しての私の考えを書きました。読まれる方のなにかの役に立てればうれしいです。


ご意見

いろいろと考えを巡らせてご意見主の要望にマッチした回答と客観的にもわかりやすくなるよう努めて私の考えを書いていきます。


おそらくはこちらの記事で書いたことに対してのご意見でしょうね。

絵を始めてから今まで採用しているドット絵は、身体に起因する技術に依存せず、その良し悪しは作家の判断力に寄るところが大きいのが特徴です。
大事なのは判断に必要な価値基準で、ひいてはそれが作品に表れているか客観的に判断するための審美眼なのではないかと考えました。

正確な引用範囲がわからないのですが、たぶんここらへんへの言及かと思います。

「技術も努力もある」とのことで私の「〇〇ない」といった主張への反論かと思います。「身体に起因する技術に依存しない」に対しての言及ですかね。



私がドット絵に関して「身体に起因する技術に依存しない」といった主張をした理由は「絵をはじめたばかりの人でも、熟練した人でもドットにおいては同じ直線が引ける」という事実に集約されています。

たとえば鉛筆で直線を引こうとする際は熟練度がものをいいます。長く鉛筆やそれに準ずる画材の取り扱いに従事し、その扱いに長けていれば限りなく直線に近いものが引けるでしょう。でも初心者にはそれができません。

ドットと鉛筆で、初心者と熟練者で同じ直線を引くということをするとしたら、必要な技術とその習得のために必要な努力は雲泥の差です。ここを指してドット絵は身体に起因する技術に依存しないと主張しました。

入力デバイス(インターフェース)がそのひとの身体にあったものであれば、アウトプットされる線や点には、インターフェースの延長としての身体への依存度が低いということです。というか依存しません。
現にマウスを使ってもトラックパッドを使っても、人差し指でクリックしても中指でクリックしても、描写されたドット単体の性質は変わりません。

そこに異なる性質や役割を付与するのは作品を作るものの審美眼であり、それをキャンバスに表す判断なのです。だからこその「身体に起因する技術に依存せず、その良し悪しは作家の判断力に寄るところが大きい」という主張なのです。


意見の衝突を恐れず言うと、能力や努力といった言葉と身体性への執着を見るに、私とご意見者さんは絵や創作の比重を置くところが間逆なのだと思います。

私は能力の高さや努力の有無にはさほど重要性はないと考えています。ものを作る人間にとっては出来上がったものが、ひいてはそれを評価する他者の反応がすべてです。
ただ、能力や努力に重要性はないといいましたが、必要性はあるとは思います。なにもせずに良い作品ができあがるとは思っていませんし、世の中には1万時間の法則というのも知れ渡っていますからね。
ただそういった努力があれば必ず成果が出るわけでもないですし、能力が高い人間だから必ず成功するわけでもありません。

ものを作る人間でしたら作ったものがウケているかというのはひとつの大きな指標としてあるのは間違いないでしょう。私は技術向上のための努力は欠かしませんし、その大切さも認めていますが、ものを作る人間なら過程である努力や培った技術でなく、作ったものとその評価を誇りにしたいですね。

ご意見者さんがどういった活動をされているのかわかりませんが、ドットへの愛や能力や努力への信仰も、ご意見者さんが望まれる形で評価されていることを心より願っております。


以上です

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