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試し読み:『動機のデザイン』第1章

6月に刊行した売れ行き好調書籍『動機のデザイン 現場の人とデザイナーがいっしょに歩む共創のプロセス』(由井真波 著)より、「第1章」のテキストをご紹介します。

著者は、地域のお店や中小企業などさまざまな小さな現場で、依頼者(クライアント)とともに商品づくりやサービスづくりに取り組んできた京都在住のデザイナー。本書では、「共創」をうまく回していくための29個の実践のポイントを示しています。

クライアントに納品したらおしまい、でいいのかな?と思っているデザイナーさん、また、「デザイン」を取り入れて自分たちの取り組みをより良くしたいと思っている事業者の方々に、ぜひ読んでいただきたい一冊です。


第1章 なぜ「動機のデザイン」なのか

小さな現場での仕事から

 私は小さな現場で仕事をしています。京都を拠点に、過疎地を含む地域や、そこで活動する中小企業などのためのデザインに取り組んでいます。
 取り組むテーマは、観光ビジネスの立ち上げから新商品づくりまで、多岐にわたります。新しい商品やサービスの企画開発、観光のための体験・交流プログラムづくり、ブランドのコンセプトづくり、チラシやウェブサイトのデザイン、パッケージデザインなども手がけます。合計数時間のミーティングとアドバイスやアイデア出しで終わる仕事もあれば、十数年におよぶ長い取り組みもあります。
 実を言うと私は最初、ここまで幅広く手がけることになるとは想像していませんでした。これには、私が「小さな現場」で仕事をしてきたことが大きく関わっています。

小さな現場で力を発揮するデザインのために
 
過疎化や高齢化の進む地域や、次の展開に悩む中小・零細企業。小さな現場では、直接の仕事相手がひとつの会社であっても、商店会や役場をはじめ、さまざまな立場の人々が関係してきます。単独で自分の商売だけをがんばっても、地域全体の魅力や発信力を高めないことには、はじまらないからです。ひとつの商品の価値を発揮させるには、周囲の環境まで視野に入れる必要がありました。
 現場との出会いは一期一会で、ふたつとして同じ環境、同じ条件はありません。毎回はじめての出会いですから、その現場ごとの背景や状況を理解するところからはじめなければなりません。まず全体状況のリサーチから着手して、その現場に合ったプランを立てて、はじめて有効なデザインを行い、成果をつくり出すことができます。こうして必然的に、インプットからアウトプットまで、プランニングから商品デザインまで、幅広い取り組みをひとつながりの仕事として手がけることになりました。

小さな現場にいる、多様な人々
 私が訪れる小さな現場には、地域の役場や観光協会の人、農業や林業を営む人、住み暮らす人、近隣から訪れる人、古くから地域に根を下ろしている人、Uターン、Iターンしてきてビジネスを立ち上げようと奔走する人、新しい経験を求める学生など、さまざまな人々が関わっています。
 自分たちが暮らす場の状況を感じとり、ときに危機的な状況を変えようと行動を起こす人々がいるかと思えば、その隣には、それぞれの理由や事情があって関心を持てない人、変化を好ましく思わない人もいます。少人数なのに、そこにいる人々の属性、職業、年齢、関心度、意識は、大きな組織や企業内とは比べものにならないほど多様です。課題そのものも多様なら、課題のとらえ方も人によって多様なのです。
 そこにいる人々の、もうひとつの特徴として「ひとりで何役も」担っている、ということがあります。小規模の事業所では、社長が設計者で製造管理で営業で、奥さんが専務で経理だったり、売場の若者が新規事業の企画者だったりします。ひとつの領域や職能に専念して仕事をしていられる人が少ないのです。求められる多様な役割に、積極的に向き合っている人もいれば、とまどい、立ち止まっている人もいます。
 これは見方を変えると、柔軟な役割の担い方や働き方ができるということでもあります。全体を見渡しやすいスケールの現場なので、一人ひとりの考えでそのような働き方が可能であるとも言えます。
 そして小さな現場にいる人々は、誰もがみな忙しい。だから、新しいものごとに対して「学習のための学習」をしている余裕はありません。新しい領域への挑戦が即、実践であり、学習の機会である、そんな形でなければ変化を受け入れることはできません

小さな現場に入り込んだデザイナーとして
 このような「小さな現場」で、外部から呼ばれた「専門家=デザイナー」として、現場の関係性の中にしばしポジションを得て、彼らが起こそうとしている変化を後押しする。これが私の役割です。
 実は私の場合「これこれの条件で何々をデザインしてください」といった、最初から決まった注文があってそれに応える形で仕事を完結できることは、ほとんどありませんでした。そのため毎回、前提となる背景の聞きとりから着手することになりました。
 それぞれの現場にどんな背景があり、何が課題なのかを、まず自分が理解するために、みずから現場へ入り込んでリサーチし、ヒントを探り、有効なきっかけや軸となりそうなものを見つけ出し、仮説を立て、試作を重ね、提案し、かたちづくり、伝える──そのすべての行為に一から着手し、関係者と一体になって、陰にひなたに支えながら取り組んできました。

上流のプロセスにさかのぼる中で
 チラシやパッケージなどの見た目をデザインする前に、そもそも何をデザインの対象として取り上げるべきか、それがどんなふうであればそのお店なり地域なりの価値を発揮でき、望む結果につながるのか。その目的とポイントを探るところからはじめるのは、デザインの本来の進め方でもあります。
 私の取り組んだ現場では、いわゆる「デザイン」という言葉で多くの方が想像されるような「カタチのデザイン」よりも、その前段階の模索と整理の作業──この本で「価値のデザイン」と呼んでいる作業のほうが重要で、かつ時間と労力を要することがほとんどでした。
 この手探りの模索の段階では、現場を担う方々に参加してもらい、ワークショップなどの形でそれぞれの人が持つ思い、情報、アイデアなどを聞き出す機会を積極的にもうけてきました。最終的にデザインの取り組みによってめざす効果を発揮するためには、それが必要だし、有効だったからです。
 しかしその中で私は否応なしに、あることに気づきました。現場を担う「人」の役割の大きさです。

専門家としてのデザイナー」の功罪

 かつては私も、デザイナーとして「カタチのデザイン」だけを請け負ったこともありました。新しい姿形をデザインし、できあがった結果だけを依頼者に引き渡して、終わり。自分の仕事は自分の手元で済ませ、できあがったものだけをバトンタッチする。
 従来のデザイナーは、こうした形で仕事をすることのほうがむしろ普通であったように思います。

デザインという行為を「バトンタッチ」できるのか?
 「デザイン」の名のもとに成果物の形を整え、現場の当事者へ引き渡せば、短期的には「うまくいった」ように見えます。新商品のおしゃれなパッケージや、見やすいウェブサイトが仕上がり、依頼した側も納得しています。
 しかし、「できあがったものだけを成果として引き渡す」という方法では、実は根本的にはうまくいかない場合が少なくありません。このことを、私自身がさまざまな現場を経験するほどに、無視できなくなっていきました。
 もちろんデザインを求める現場は一つひとつ異なり、デザイナーの能力も流儀も多様です。ただ、私はたまたま「自分ひとりの力ですばらしい解決策を生み出す」タイプのデザイナーではなかったようです。
 私という「専門家デザイナー」は、現場の当事者のみなさんから見れば部外者です。現場にとって大事な変化を引き起こすべきデザインの取り組みを、部外者である私が担うほど、抱え込むほど、大事な取り組みが現場の方々にとって「他人ごと」になっていくように感じます。
 その結果、たとえばおしゃれなパッケージをデザインしても、しばらくするとちぐはぐなシールが貼られていたり、せっかく見やすくデザインされたウェブサイトがずっと更新されないままだったりします。そして何より、デザインに込められた意図を、現場の当事者が自分の言葉で語ることができないのです。
 それは、そもそもできあがった成果物自体に不備や問題があるから、という場合もあります。しかしそれもまた、デザイン開発のプロセスの中で、当事者が「自分ごと」として関われなかった結果であることも、少なくありません。

デザインの「主(あるじ)」は誰?
 問題は成果物の質のよしあしというよりは、関係性、つまり現場の人がデザインとどう関わるか、にあります。この関係性をつくる能力まで含めて、デザイナーの力量であると言ってもよいのかもしれません。
 専門家デザイナーのつくった最終成果物が、意図したとおりには現場で活用されないという寂しい状況は、残念ながら珍しくありません。これは、デザインの取り組みは「よそもの任せ」では成立しない、ということではないでしょうか。私たち専門家デザイナーがどれほど時間とエネルギーをかけ、洞察にもとづいた本質に迫る提案ができたとしても、デザインの本来の「主(あるじ)」は私たちではありません。
 デザインの行為と成果物、そしてその結果、現場に新しい活気が生まれるなどの変化が起きたとして、その成果や変化のオーナーは誰なのか? それは現場を担う人々だと私は思います。デザインの取り組みも、成果物も、新たに生まれた変化も、現場の人々が主体的に担っていくものです。専門家としてのデザイナーはそれぞれの現場において、長短はあれ、期間限定の役割を担うにすぎないのです。
 私はこれまで、デザインの取り組みのプロセスに、なるべく現場にいる多様な方々を引き入れ、双方向のやりとりを行うよう心がけてきたつもりです。特に「何のために、何をすべきか」を模索する「価値のデザイン」の中では、これを大事にしてきました。
 それでもなお「デザインの専門家」として抱え込みすぎているのではないか。その結果、デザインが力を発揮して変化を生み出す創造的な筋道を、当事者から見えづらくしてしまっているのではないか、という懸念を拭いきれません。

デザインの現場は、共創の中にある

 デザインの途中の筋道はよそものの専門家任せで、最終成果物だけが完成したとしても、その成果を現場に根づかせ、育て、継続していくことは至難の業です。その意味で、デザインの取り組みにおいて「最終成果」だけに集中するのは、長期的、総合的に見ればバランスが悪いのではないか。
 これを解決するには、デザイナーが去った後も、現場にいる人々がデザインの成果を活用し、育てていけるように、あらかじめプロセスを組んでおく必要があります。現場の当事者たちが、デザインのプロセスに適切な関わりを持つことによって、現場にいる一人ひとりの中にデザインの筋道が自分ごととして内在化されないだろうか、と私は考えています。

専門家も答えを持っているわけではない
 デザイナー(専門家)なんだから、最終的なカタチ(=回答、解決策)を持っていますよね? それをください」──デザイナーとしての私に依頼が来るとき、最初に期待されることは、たとえばこんな感じです。
 たしかに、現状と目的を踏まえて、商品やサービス、しくみなどを形として表現することは、専門家としてのデザイナーの重要な役割です。けれどその最終的な「カタチ」は、あらかじめデザイナーの頭の中にあるわけではないし、与件を入れれば自動的に「正解」が出てくる方程式があるわけでもありません。
 そのつど新しく出会う、それぞれに個性的な現場で、そこにしかない条件、環境、文化のもとで、核となる価値の原石を探し出し、磨きをかけ、お客様などの相手に効果的に伝わるようにかたちづくり、表現していく。この一連の創造行為がデザインです。
 そこには踏むべきステップがあり、試行錯誤の行ったり来たりがあり、現場にいる人々の意思や情報提供、能動的な関わりがあって、はじめて効果的な成果が生まれます。前半の模索を含めた創造行為がデザインであり、途中のプロセスは省くことのできないものです。

現場と共につくることでこそ、変化を起こす
 このプロセスの重要性に気づいて以来、私は日々の現場を担っているみなさんと、共につくること(共創)を意識しています。私は共創を「他者と互いに働きかけ合いながら、ひとりではできないものをつくり出していくこと」といった意味でとらえています。単なる共同作業や役割分担ではなく、それぞれの人が単独では考えられなかった力を発揮し、変化を生み出す、そんなイメージです。
 現場を担う人々との共創は、互いの違いを活かし合い、触発し合いながら、誰も予見できない何かを生み出していく作業です。ひとりのリーダーに従うのではなく、いつの間にか全員がそれぞれの思いや考えを持って参画できている。そんな共創を体験すると、当事者の取り組み方が変わり、後々まで長期的な変化を生み出していく力が生まれます。

現場の人々が持つ、無意識の資産
 現場の担い手たちは、もともと一人ひとりがそれぞれにしたいこと、したくないことがあり、思いや意志、それまでの経験から蓄積してきた、潜在的、暗黙知的な知見を持っています。
 現場を変える取り組みにかかろうとするデザイナーの私から見れば、それはうらやましいほどの豊かな資産です。けれど本人たちは、往々にしてそれを自覚していません。あるいは自覚していても部分的だったり、デザインのプロセスにおいて重要な要素になるとは思っていないことが多いのです。「デザイン」は特定の専門家が行うものであって、自分の関わる余地もないし、関わっても役に立たない、と思っているかのようです。
 現場の人々が適切に参加するプロセスを取り入れることで、こうした資産をフルに活かし、他にはない、その現場ならではの価値を見つけることができます。そして、そうでないとデザインの取り組みは「専門家任せ」になり、成果物ができあがっても、現場で命を吹き込まれることなく立ち消えてしまいがちです。

人の動き方が変わると、状況が変わる

 現場を担っている人を、ここでは「当事者」と呼んでいます。「当事者」の方たちは、自分の業務や役割をあくまで「仕事」として、自分個人の思いや実感とは切り離している場合が少なくありません。
 この当事者が自分の経験や実感を足がかりにして、自分なりの思いや考えを持って主体的に仕事に関わり、動くようになったとき、この人たちは「主体者」だ、と私は感じました。当事者にすぎない状態と「主体者」との差は、関わる時間の長短でも、能力や役職でもなく、関わり方の質の違いにあります。また「この人が主体者」と固定されるわけではありません。ひとりの人が、場面によって単なる当事者であったり、主体者であったりもします。

デザイン活動の中で「自分」を使いはじめる
 共創の中では、現場を担う人々が、自分の気づきや考えを仲間やデザイナーに共有します。そして自分の気づきが他人のアイデアに反映されたり、全体の流れを変えるところを目の当たりにします。また、自分の投げかけに対するデザイナーの受けとめ方や、発想やふるまいに触れ、身をもってデザインという創造的な活動のプロセスを経験していきます。
 すると、それまで「デザインとは関係ない」「役に立たない」とみずから封じていた、一人ひとりの感じ方や考え方が、少しずつ解放されはじめます。このように、閉じ込めていた自分の思いや考えをみずから認め、みんなの前に出し、活かすことを、私は「自分を使う」と言っています。
 メンバーがお互いに「自分を使って」感覚や思考を出し合い、受けとめ合い、それによってデザインの活動が展開していく。自分が関わることの手応えを感じ、動機が高まってゆく瞬間──「小さな現場」で私が繰り返し目撃してきた、出会うたびにワクワクする瞬間です。
 変化をつくり出していくことに貢献することと、その手応えを実感すること。この2点によって、単なる当事者だった人々が、デザインを「自分ごと」として活用し、更新し、活かし続けていく「主体者」として動きだすのです。

「担う人」に注目する──「動機のデザイン」という考え方
 デザインの取り組みに参加する中で、共創を体験し、「主体者」としてデザインを自分ごとにした現場の人々。ひととおりの取り組みが収束してデザイナーが去った後も、彼らはその成果を更新し続け、活かし続けていくことができます。そうすることで「主体者」としてさらに成長し、また彼らの姿勢が周囲の人々に飛び火して、現場を担う主体者の層が厚く充実し、その中から新しい活動が生まれ、意志を持った取り組みが継続されていきます。
 プロジェクト[※]に取り組むとき、私はできるだけ、こうした相互作用や先々の継続性まで含めてイメージしています。たとえば、この先現場でデザイン活動を担ってくれそうな人に気づいたら、意図までは説明せずに「ひとまず」参加しておいてもらう、ということもよくあります。
 もともとは私も、対象物の最終的な形をつくることがデザイナーの仕事だと、素直に思っていました。しかし商品やサービス、しくみなどの「対象物」だけに集中していても、取り組みが思うように動きだすことはありませんでした。模索する中で、現場を担う人々に働きかけながら進めてみると、デザインの取り組みに生気が吹き込まれ、いきいきと動きはじめました。

 毎回必要に迫られて、現場にいる「人」への働きかけを行ううちに、「人」に注目することではじめて「対象物」のデザインが生かされるということ、そしてこれが自分の取り組むデザイン行為には不可欠であることを、次第にはっきりと意識するようになりました。こうして私は、現場で出会うさまざまな関係者の「動機」に注目し、働きかける「動機のデザイン」という考え方にたどりつきました。

 次の第2章では、「カタチのデザイン」「価値のデザイン」そして「動機のデザイン」という、デザインの3つの側面をくわしく紹介し、「動機のデザイン」の意味をもう少し明確にしていきたいと思います。


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