試し読み:『わたしたちのウェルビーイングをつくりあうために』 はじめに
このたび重版2刷の運びとなりました、2020年2月刊行書籍『わたしたちのウェルビーイングをつくりあうために その思想、実践、技術』から、渡邊淳司さんとドミニク・チェンさんによる冒頭の「はじめに」のテキストをご紹介します。
コロナウイルスとともに生きる世界となり、人々の価値観が大きく変化するなか、「ウェルビーイング」へのますますの注目の高まりを感じます。ぜひ読んでみてください。
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はじめに
ウェルビーイングとは、「わたし」が一人でつくりだすものではなく、「わたしたち」が共につくりあうものである。これが、本書の中核となるシンプルなメッセージだ。
人の心はいかにして充足するのか。医学、心理学、統計学といった、近代社会における諸科学の発展のなかで、人間の心の働きや状態を観察・分類し、そこから法則性を導き出すということが行われてきた。世界中の人々の幸福度が調査されるとともに、その幸福を構成する要素、つまりウェルビーイングの要因を導き出すための、より細密な研究が加速している。人がどのようなときに、どんなことに対して充足を感じるのか。そのデータを統計的に処理し、“人間一般”の性質を導き出す。それは人間科学としてはまったく問題がない。しかし一方で、人の心を充足するための働きかけ、ウェルビーイングに向けたサービスや福祉、社会政策を検討するにあたっては、“人間一般”を対象として考えると、大きな問題を引き起こしてしまう。
個々人はそれぞれ固有の趣向や物語の中で生きており、データを平均することで生み出された誰でもない“人間一般”に向けたサービスが、誰かの心を十全に満たすことはないだろう。もちろん、これまでもそれぞれに向けたサービスが検討されてきたが、現実として、すべての個人にカスタマイズすることは無理な話である。だからと言って、「効率性」や「経済性」だけを第一原理とすることが最善とも思えない。さらに、こうした既存の「ものさし」にとらわれると、サービス対象である人の心を一つの制御対象として機械的に捉えてしまうことすらある。ウェルビーイングは、こうした効率性や経済性といった既存の「ものさし」に代わる、人それぞれの心を起点とした新しい発想の「コンパス」となるものである。
また、これまでのウェルビーイングの研究は、個人の心の充足を主たるテーマとして扱ってきた。そこでは、自分の状態を見つめ、理性的に心を制御することが理想とされている。これは、心理学・社会科学をリードする欧米の、個人が屹立し、それらの充足から始まる個人主義的な社会観が影響しているのかもしれない。とはいうものの、人間は社会性を生存戦略とし、いくら個人主義が浸透しようとも、社会的な生物であることは変わらない。であるならば、「わたし(個)」だけでなく「わたしたち(共)」のウェルビーイングについても、もっと考えるべきではないだろうか。
一人でいる限り、個人のウェルビーイングに良いも悪いもない。しかし、その個人が複数集まったとき、何を優先すべきか、ウェルビーイングに関する競争が生じる。ある人のウェルビーイングを満たすことは、別の人のウェルビーイングを損なうことにもなりうるのである。このとき、力の強い人のウェルビーイングはより満たされ、力の弱い人のウェルビーイングはより損なわれるということになる。このような状況は、社会として是とすることは難しいだろう。個人主義とは別のウェルビーイングの価値観を導入することで、異なる社会像を目指すことはできないだろうか。
オルタナティブな価値観のひとつとして、日本をはじめとする東アジアの集産主義的(Collectivistic)な価値観が挙げられるだろう。「わたしたち」という個の集合的な総体のウェルビーイングを想定し、そのウェルビーイングを複数の「わたし」がつくりあうのである。つまり、「わたしたち」のウェルビーイングとは「競争」するものではなく、「共創」するものなのだ。もちろん、「わたし」を失わせ「わたしたち」に重きをおくべき、と主張しているわけではない。「わたし」のウェルビーイングを追い求めつつ、「わたしたち」のウェルビーイングを共につくりあう、重層的な認識によってウェルビーイングを捉えていく必要があるということである。
では、どうやって「わたしたち」のウェルビーイングをつくりあうことができるのだろうか?
そのためには、何よりも他者との関係性を捉え直す必要があるだろう。現代社会では、社会の分断化が叫ばれ、異なる他者を退ける言説が衆目を集めやすい。だからこそ、蔓延する個々人を切り離す思考をうまくほどいていかなければならない。わかりあえなさのヴェールに包まれた他者同士が、根源的な関係性を築き上げ、共に生きていくための思想(Philosophy)、実践(Practice)、技術(Technology)が求められている。他者を遠くから観察し尽くせるとは考えずに、他者との関係の中に入り込み、ときに自己の一部として他者を認識しつつ、異なる存在へと自己が変容することを受け容れる。本書では、そのようなプロセスを実現するための方法論として、身体に働きかけるテクノロジーや、共感・共創を促進するワークショップに着目した。
人間は、これまで、記号化を通して他者やその集合としての社会を客観的に把握し操作する術を洗練させてきた。それはある程度の成功を収めてきたが、ウェルビーイングといった複雑で個人差の大きい対象を扱うのは得意ではない。記号化による客観操作はひとつの認識論に過ぎず、それがすべての対象に適用可能かは疑問である。たとえば、私たちの身体や意識下の情動や行動は、言葉によって支配し尽くすことはできない。それは他者に対しても同様であろう。であるからこそ、記号として「わからない」と思考停止に陥るのではなく、身体的想像力に訴えかける技術や方法論によって感じあい、「わたしたち」のウェルビーイングの共創を促していく必要があるだろう。本書をそのための思想・実践・技術の参考として活用いただけたら幸いである。
本書は主に5つのコンテンツからなる。冒頭のイントロダクションは、ウェルビーイングに関する導入である。何より各個人が自身のウェルビーイングについて深く知ることが導入としてはふさわしいだろう。前述のように、ウェルビーイングはコンパスであり、自身の向かう方向を示してくれる。とはいっても、そちらへどうやって進むのか、自分はどんな進み方が好きなのか、歩くのが好きなのか走りたいのか、それとも電車に乗りたいのかは、自分で理解しておく必要がある。自身のウェルビーイングを、「I」「WE・SOCIETY」「UNIVERSE」というカテゴリから輪郭をもって捉えてみよう。普段、健康診断によって自身の身体の状態を把握したり、好きな食べ物や嫌いな食べ物を自覚して食事を楽しむように、自身の心の特性を理解してウェルビーイングに取り組む必要があるのである。
Part 1は、「ウェルビーイングとは何か?」を論じた概説である。これまでのウェルビーイング研究に基づいた「わたし」のウェルビーイングとともに、本書の特徴である「わたしたち」に関するトピックもとりあげている。また、「コミュニティと公共」というより広い視点からのウェルビーイングについても論じ、現代社会の一部となっている「インターネット」とウェルビーイングとの関係、その可能性についても述べる。
Part 2は、「〇〇とウェルビーイング」と題し、ウェルビーイングと関連する分野の専門家の方々の実践的な論考を掲載している。テーマは、「情報技術」「つながり」「社会制度」「日本」と多岐に及ぶ。情報技術は現代社会に欠かせないものであるし、つながりはまさに「わたしたち」という考え方をどう捉えるのかの核心である。社会制度は「わたしたち」と社会に関する規範を論じる。日本というテーマをとりあげたのは、「わたしたち」という考え方が日本や東アジアの集産主義的な考え方に基づいており、その背景をより深く知るためである。読者各位の興味に従って個別に読んでいただくこともできるが、それらに通底する考え方を見出すことも本書の愉しみ方と言えるかもしれない。
Part 3は、安藤英由樹、坂倉杏介、ドミニク・チェン、渡邊淳司の4名を中心とするウェルビーイングに関する研究プロジェクト「日本的Wellbeingを促進する情報技術のためのガイドラインの策定と普及」(科学技術振興機構社会技術研究開発センター[JST/RISTEX]「人と情報のエコシステム」研究領域)で制作したパンフレット「ウェルビーイングな暮らしのためのワークショップ」をもとにしている。本ワークショップは、ウェルビーイングに基づきながら新しい暮らし方やサービスを考えるために、チームビルディングや信頼関係づくりから始まり、サービス・製品開発のための新しいアイデア出しまで、地域のリビングラボや企業のサービス開発の場で行われてきたものである。実際に、本書に沿ってワークショップを実施いただけたらと思う。巻末には、同名がウェルビーイングに関する研究を通して感じた率直な言葉が座談会のかたちで掲載されている。
遠くない将来、ウェルビーイングに配慮するのがあたりまえになる社会が到来するはずだ。本書がそのような社会で、誰もがいきいきと生き働くために役立つことができたら、それは望外の喜びである。
2020年2月
監修・編著者 渡邊淳司/ドミニク・チェン
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