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試し読み:『日々の政治』訳者解説

2020年9月に刊行した『日々の政治  ソーシャルイノベーションをもたらすデザイン文化』から、巻末の「訳者解説」をご紹介します。

著者のエツィオ・マンズィーニさんの文章は哲学的で難解なところがあり、なかなか読みやすいと言えるものではないのですが、安西洋之さんによるこの解説は非常にわかりやすく、本書を読む前にご一読いただけると、内容に入っていきやすくなると思います。

本書で語られる「公共財(コモンズ)」はいかに作られうるのか、そのために自分は何ができるか、改めて考えたい昨今です。

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政治と政策を語る主語を変えていく

本書は、「世界の変え方」の示唆を目的としている。

世界の変え方というと大げさな表現と思うかもしれない。だが、理にかなった話をしている。自分が生きる場所で支配的なロジックに否と言い、社会的価値と自分自身の能力のバランスを考慮しながら生活基盤や自然環境のロジックを変えていく。今、小さなサイズのローカルはグローバルに分散する数々のローカルとつながっている。そのネットワークの上で徐々に世界を変えていく。本書はそのための行動の仕方を示しているのだ。書名にある「政治」は、職業的政治家や行政を主語にしたものでない。生活する人々を主語にしている。生活をする人々の手に政治や政策を取り戻す必要性と可能性を説いているのだ。それが、著者の言う「プロジェクト中心民主主義」である。

著者のエツィオ・マンズィーニは、デザインとソーシャルイノベーションをキーワードにした世界での第一人者である。デザインはソーシャルイノベーションに大いに貢献する。これが彼の主張である。2009年にはDESISという世界のデザイン系大学をソーシャルイノベーション軸でネットワークを結び、世界各地の大学が社会的課題に独自に取り組める土壌をつくっている。また、サービスデザインの基礎をつくる取り組みも主導してきた。ミラノ工科大学で長くデザインを教え、現在は名誉教授である。

本書の英語版は2019年に出版されている。その四年前の2015年、マンズィーニは『Design, When Everybody Designs(デザインせよ、誰もがデザインする時代だ)』(MIT Press)を出版している。これはデザイン理論の書であり、本書で述べる内容の基礎にもなっている。その意図は左記〔以下〕だ。

あらゆることの動きが速く流動的で、前の人たちが考え実施していたことをそのままやろうという「慣例モード」に基づいた生き方は通用しなくなってきた。常に自分で動き新しいやり方を生み出さないといけない「デザインモード」に重心が移行しており、デザインの有効活用でサステナビリティある社会変化を目指す時代である。実は誰にもデザイン能力がある。従来の専門家の手によるデザインの技法を指すのではない。生活のなかで前進するための選択肢をつくる力だ。人々は、そのデザイン能力に磨きをかけることでソーシャルイノベーションに貢献できる。ソーシャルイノベーションには社会的な問題の解決だけでなく、意味の形成が大切だが、特に後者に対してデザインの力が期待できる。また、こうしたソーシャルイノベーションのプロセス自体がデザイン文化を育む。すなわち、デザイン能力を発揮することによって、デザイン能力を育成する土壌が豊かになるという循環が得られるのだ。

右記〔上記〕で述べたデザインやデザイン文化のパワーと使い方を踏まえ、本書は日々の生活での実践的指針を語っているわけである。前著がデザインを専門とする人たちがデザインを非デザイナーに手渡すためのロジックについて説明しているとするなら、本書はデザインを受け取った人たちが次なる具体的一歩を踏み出すために背中を押している。

問題解決と意味形成の相互関係が文化をつくる

私がマンズィーニの本を訳してみたいと思った動機を書いておきたい。ソーシャルイノベーション、デザイン、ビジネスなどそれぞれの分野で活動する人たちが本書の対象読者になると思う根拠になる。

現在、ストックホルム経済大学やハーバードビジネススクールでイノベーションやリーダーシップあるいはデザインなどを教えるロベルト・ベルガンティの『突破するデザイン あふれるビジョンから最高のヒットをつくる』(日経BP)の監修を2017年に手掛けた。それ以降、彼が提唱する「意味のイノベーション」の日本でのエバンジェリスト的な活動を始めた。この数十年のイノベーションは問題解決に偏りがちで、イノベーションのもう一つの側面である意味形成(英語のsense makingの訳として「意味構築」や「意味づけ」もあるが、ここでは深入りせず、問題解決との対比として意味形成を使う)が疎かになっている。そこで、意味形成の重要性とそのアプローチの仕方について記したのが『突破するデザイン』であった。対象は、ビジネスであれ、社会貢献活動であれ、すべてである。だが、経営学者の本としてビジネスパーソンが理解しやすいように最終消費財を中心にしたB to Cの事例が多く語られている。

私は多くの記事を書き、多くの場で多くの人たちに意味のイノベーションについて話した。世の中全体の潮の流れが変わりつつあったこともあり、意味に目を向ける人の数は増えてきた。しかしながら、意味のイノベーションをマーケティングの一手法と捉える向きもいる。つまり『突破するデザイン』で解説のために選択したフィールドが意味のイノベーションの適用範囲のすべてだ、と思い込む人が多いと私は感じたのである。

言うまでもなく、意味を考える範囲は、人の生きる意味から始まり、ビジネス以外の社会生活までを網羅する。よって商品企画やマーケティングの手法としてだけ意味を問うのは不適切である。しかも企業が市場のなかだけで独自の生き方を考えることに限界が生まれ始めた。むしろ社会生活や社会活動との範疇で企業が進むべき目的地を決めないといけない場面も増えている。こうした傾向にあるなかで、社会とテクノロジーを包摂する文化文脈の変更を個々人が積極的に仕掛けていくことが大切になってきている。意味のイノベーションというアプローチが適切に理解され使われるためには、社会や文化のコンテクストでの意味形成を視野に入れないといけない。産業を主役においた市場のロジックだけで世界はもはや動かない。

一方、ソーシャルイノベーションを語る側の議論を見ていると、やはり社会的課題解決一辺倒なシーンが圧倒的に多い印象を受ける。ソーシャルイノベーションは、定義として、英国ヤング財団の「社会的ニーズを満たし、同時に新たな社会的関係やコラボレーションを創造する新しいアイデアである。それは社会にとって価値を生み、社会の活動能力を高めるイノベーションである」の文章がよく使われる。それにもかかわらず、実際には新たな社会価値や意味に触れる部分が視界から欠落していることが多い。ただし、問題解決よりも問題の前に来る課題そのものを見いだす方に重心を移さないといけないとの議論はある。しかしながら、課題探しと意味形成は同じではない。お互いに関係するが別ものだ。それなのに、これらをまったく同じものと見なしている意見も散見する。そもそもが、意味形成という領域がこれまた視野に入っていないのである(意味形成は文化をつくるが、課題探しで文化はつくりえない)。

これからの社会を歩んでいくに必要なのは、企業活動から社会活動までの広い領域で問題解決と意味形成の相互関係に目を向けることで(つまり、それぞれが独自に成立できるわけではない)、本書はまさにそれを語っている。

1990年代後半、ベルガンティはミラノ工科大学の経営工学の教員として、イノベーション研究の一貫としてデザインマネジメント領域に足を踏み入れた。彼はデザインについて、同大でデザインを教えるマンズィーニと長期間にわたり多くの議論をしている。したがって二人の考え方には通底する点も多い。つまり、マンズィーニのソーシャルイノベーションの言葉をベルガンティがビジネス言語として語っている。そう私には思える部分があった。だから、二人の見方と言葉を合わせれば、社会にインパクトを与えるイノベーションの全体像をかなり立体的に描けるはずだと考えたのだ。

そしてベルガンティから「ぼくは意味形成のビジネス領域を主に語っているが、エツィオはビジネス以外のフィールドの意味を扱っている」と言われた時、私は翻訳をやるべきこととして確信した。そこでマンズィーニ本人に「あなたの本を日本語にしたいのだが、何かと協力してくれないか」と直接お願いして快諾をもらったのが本プロジェクトのスタートである。本書の実際の翻訳にあたっては、『デザインの次に来るもの これからの商品は「意味」を考える』(クロスメディアパブリッシング、2017年)を一緒に書き、『突破するデザイン』を共に監訳した立命館大学経営学部の八重樫文さんに協力をお願いした(私が1章と3章、八重樫さんが2章と4章を訳し、お互いの訳にアドバイスや意見を言い合った)。

バールのテラスでマンズィーニが熱弁している

本書の読み方について触れておこう。本書はエンジニアがするような、はっきりとした目標に達成するために論理を緻密に組み立てていく構成と書き方になっていない。ブリコルールがするように、目の前にある材料を使い、さまざまに浮き上がってくる想念を取捨選択しながら(たまに前後を行き来しながら)ロジックを構築していく。そして複数のオプションから選択するときは、必ず実践を可能とするポジティブな考え方を採用していく。

特に最初の章(あえて言えば2章前半まで)は観念的な話が続く。読みやすいとは決して言えない。これははっきりと言っておこう。ただ、一読でよく把握できなくても、さっと目を通していただきたい。2章後半から後は哲学的な文章がぐっと減る。そして、最後まで読んでその気があれば1章を再読していただきたい。二度目に読むときは、「そうか、ここは本の後半のあの部分の概念的説明だったのか!」と謎が解けるようにわかってくる(著者の言うことをじっくりと味わえる)。つまり1章は考え方の大枠を示すことに費やされている。その大枠がかなり広いという実感を得られるのが理想だ。問題解決と意味形成の両端がどれだけ離れ、しかしどれだけ密接な関係を持つか感覚的に掴むのである。

舞台裏をここで少し披露しておこう。正直に言って、1章を適切な日本語に置き換えるに難儀した。今もって100%満足しているとは言い難い。もっとこなれた日本語になるのではないかとの思いはある。それができないのはひとえに私自身の非力に原因がある。語りの一人称を「ぼく」とできないかと思いついたのは、まさにその1章の抽象的表現で悪戦苦闘しているなかでだ。当初、「私」と主語を表現した。だが、ややもすると雲を掴むような言葉を読者により接近させるには、文章を少々カジュアルなスタイルにして、目線を下げた感じにするとよいのではないかと思いついた。仮にマンズィーニが日本語を話すとしたら、彼は自分のことを何と言うだろうか? 「私」か「ぼく」か「俺」か。もちろん時と場所によるが、高名な教授として周囲の人々から敬意あるアプローチを受けながらも、相手に無駄な気を遣わせない親しみやすい振る舞いを見ていると、彼に相応しいのは「ぼく」ではないかと想像した。もしかしたら「俺」かもしれないが、さすがにこの内容に「俺」はやり過ぎだ。

次に、そう思った私の感覚が適当かどうか、マンズィーニをよく知るミラノ工科大学の先生に相談してみた。日本語の主語の表現にはバリエーションがあり、それぞれにニュアンスの違いがあると説明し、マンズィーニはどの自称が相応しいと思うか?と。そしたら「ぼく」が適当だとの意見をもらったのである。それで、「ぼく」であるマンズィーニが、小さな田舎町にある広場に面したバールのテラスで語っている姿を思い浮かべながら文章を推敲していった。

1章の冒頭にある記述、魅力的な空き地からそう遠くないだろう距離にあるバールでマンズィーニは数々の話題を振りながら語っている。ローカルやグローバリゼーションの動向に彼は想いを寄せ、ポストモダンの言説(例えば、バウマンの「液状化世界」)などを縦横に論じながら、今生活している「ここ」で何ができるか、いや何をすることによって大きな社会で支配的なロジックを突き崩す選択肢をつくっていけるか。こうしたことに彼は熱弁をふるっている(と想像してほしい)。例えば、都心のオフィスに郊外から自動車で毎朝通勤するビジネスパーソンは、うんざりとするほどの渋滞のなかで、エアコンが効いた空間を移動オフィスのように使うことで生活の質が改善されたことになるのか? 結局において、それは自動車メーカー、通信事業者、コンテンツサプライヤーのビジネスに貢献するだけではないか? 自分自身が生きるローカルにとってプラスになると思うか?

この状況を変える選択肢はいろいろ列挙できる。近隣の人と自動車の相乗りをする、公共交通を利用する、都心に引っ越す、スマートワーキングに切り替える、自転車で通う。はたまた交通システムの改善を求める団体に入り活動する、あるいは自ら職業政治家になる…… 相乗りと言っても、ウーバーのようなグローバルプラットフォームのサービスを受けるなら通常のタクシーと同じだ。シェアリング経済の旗手と名付けられた仕組みは一見新しい考えを導入したように見せるが、プラットフォームの所有者と利用者が異なり、所有者のロジックだけで成立している。需要と供給のマッチングをするかぎりにおいて機能するが、それ以上でもそれ以下でもない。

ここで目指すべきはコラボラティブ経済ではないか。プラットフォームの利用者がプラットフォームのロジックづくりに参加できることだ。そして、人と何かをやって実現することに喜びを感じることを優先する。自転車を使うといっても、既に街中に自転車レーンが整備された自転車文化の定着したローカルではなく、まだ自転車がマイナーなローカルで自転車を利用することに意味がある。それも一人だけでは、スピードを上げて突っ走る自動車の脇で怖い思いをするだけだ。何人もの人が自転車に乗るコミュニティができ、専用レーンの必要を一定数の人が望んだときに、古いロジックが新しいロジックに塗り替えられるのである。いわゆるソーシャルヒーローのような存在が社会を変えるのではない。また目標達成型の効率を重視したコミュニティだけでなく、出入りが自由な関心を共有するコミュニティを主体とすることで自転車文化と専用レーンが成立し維持されるのだ── と、ここまでマンズィーニは一気に話し、コップに注いだ炭酸水を飲み、また熱弁をふるい始める……

こんな感じで喋りは進む。日々の政治は、このようなネタでつながった人たちと話が盛り上がっていくことなのだ。この語りから、「なるほど、こういう風に社会を変えるロジックって組み立てられるのか」と思っていただければ幸いだ。翻訳作業につきあっていただいた八重樫文さん、版権取得から編集作業までの一切を担当していただいた村田純一さんには厚くお礼を申し上げたい。

2020年8月 ミラノ
安西洋之

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