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先週から2週に渡りブランドロゴやブランドネームのヒストリーを紹介しています。先週はブランドロゴ、家紋の話をしました。今週は名字・屋号(ブランドネーム)の話をしましょう。よく知られているように名字の多くは地名に由来します。名字の「名(みょう)」は名田(みょうでん)が由来で、平安後期に開拓農民(後の武士)が切り開いた土地にちなみます。

今年の大河ドラマ、鎌倉殿をご覧になっている方も多いでしょう。梶原景時、畠山重忠、和田義盛など御家人の名字はいまも残る地名ですね。ドラマの中では「かじわらかげとき」と言いますが、本当は「梶原の景時」です。「梶原という土地を持つ景時」となります。鎌倉幕府が成立するまで、開拓した土地は貴族や寺院、さらには平家にいつ取られるともしれない状況だった。御家人は自ら開拓した土地を守るために地名を名字にし、その土地に命を懸け(一所懸命)さらにはその土地を安堵してくれる頼朝を担ぎ上げたわけです。ちなみに「の」が消えた大きな理由は、時代が下り、子孫がその土地を離れる(引っ越しなど)ことが多くなって土地との関係性やこだわりがなくなったせいです。

さて、そのように調べてみると愛知県瀬戸市に「水野」という土地がある。御多分に漏れず、我が先祖もその土地を離れた一人です。瀬戸では百姓をしながら窯業(瀬戸物の生産)をしていたのでしょう。祖父の言い伝えでは、この土地で生まれた曾祖父は、長男でなかったために土地をもらえず、いまの実家(岐阜県多治見市)に移住したとのことでした。「良質な土が出る」ことが理由でした。しかし最初の仕事は窯業ではなく、いまでいうリユース・リサイクル業でした。窯を開くにも資金が必要だった。当時は完全な循環型社会で、衣服も生活道具も古くなったら買い換えるのではなく「使い倒せるだけ使い倒す」のが当たり前。日用品のほとんどは破れや壊れを修理し再販されていました。この仕事なら元手いらずで、天秤棒や大八車ひとつあれば仕事になる。苦労したと思います。夏の暑い日に汗を拭きながら働く姿が目に浮かびます。曾祖父はお金を貯めて、やがて窯を開きました。35、36歳だったと思います。人生の充実した時期だったでしょう。当時は薪で焼く「薪窯」が主流でしたが、曾祖父は「石炭窯」を作りました。これだと焼き上がりが圧倒的に速い。しかも当時主流の「円窯」でなく「角窯」にしたので製品を四隅と天井まで均等に積み上げることができた。一度に焼ける量とスピードは圧倒的でした。仕事は順調に進んでいきました。屋号(ブランド)も決めました。桝文といいます。経済活動の象徴である「桝」と曾祖父の名前の一文字である「文」の組み合わせです。屋号は、平安から鎌倉にかけての武士たちの開墾地と同じような感覚だったと思います。景時が「梶原殿」と呼ばれるように、田舎のひとたちは我が家を「桝文さん」と呼びます。商売をしている家は名字よりも屋号で呼ばれるのがいまでも一般的ではないでしょうか。景時が梶原の土地に命を懸けたように、曾祖父も屋号に一所懸命だったと思います。

家のことを長々と書いてしまいました。ところで名字はまた「苗字」とも書きます。こちらは苗(なえ)の如く「血族」を重視した名字だと言われています。「苗字帯刀」という言葉はまさしく武家の血族で帯刀が許された階級・家柄を表現するものでしょうね。ただ日本では血縁よりも地縁を重視した歴史があるので、名字のほうが一般的に使われているように思います。