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タイツ騒動と、わたしが編集者を辞めた理由について

こんばんは。自称Vtuberのブルーウェットふみ乃(@BLVEWHET)です。ちょっと古い話題にもはやなってしまいましたが、思い出したことがあったので書いておきます。

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アツギ株式会社のタイツを題材とした広告が炎上していた。詳しくは各自調べてほしいのだけど、タイツを性的な文脈で描くイラストレーターさんが多数参加し、広告としては不適切ではないかという声が多数上がったということだ。

この炎上自体に対するわたし個人の見解は「うん、まあ、ちょっと迂闊でしたね……」くらいで勘弁してほしいのだが、そんななかで編集者の竹村俊助さん(@tshun423)がこんなことをツイートされていた。

ははあ、と思ったのと同時に、そうかな、とも思った。というのもわたしが知る編集者と呼ばれるひとは、「消費者的にこれはいけるかな、これは無理かな」的なジャッジを日常的にしていたかというと、そうではなかったからだ。(ここでは小説や漫画の編集者ではなく、雑誌のそれを想定してください)

でも考えていくうち、まあそうかな、とも思った。その思考の過程をここからしたためていきたい。

わたしは前の職場で編集者兼ライターみたいな仕事をしていたが、4年ほどで転職した。これは金銭的な理由がまず第一にあって、かつもうひとつの理由として、純粋に、この職業は自分には向いてないなと思ったからだ。

編集者がなにをしているのか、とりわけ雑誌やWebメディアのそれはあまり知らない人も多いと思う。わたしは前職の上司から「編集とは雑用の集合体である」と教わった。そして「PCの『編集』のメニューを見たら何がある。コピーとかペーストとか並んでるだろ。そういうことだ」とも。

まあまあ観念的なので自分なりの理解を書いちゃうと、編集者の仕事はおおむね次のようなものだ。雑誌やメディアに掲載するための「企画」をし、ライターやカメラマンに「依頼」し、集めた原稿や写真やイラストを入稿して出力されてきた見本を「校正」し、OKなら校了し、それが世に出るGOを出す。それに付随する事務作業すべてが編集者の職務だ。書籍編集者なら「雑誌やメディア」が「本」になって、小説や漫画の編集者なら「ライターやカメラマン」が所定の作家になる(と思う……)。

戻って最初の話だ。竹村さんは「編集者の必要性」を指摘し、社会的にいけるかいけないかを、ジャッジする人がいないと述べた。なるほどたしかに。それは、企画の良し悪しを判断するという、編集者の重要な仕事のひとつだと思う。

でもわたしは、編集者が持つべきもっと重要な精神があるなあと思っていて、それは「世間的にあかんくてもこれは世に出すべきだと思うから、この企画をやろう。そして、出したからには責任を持とう」という、覚悟というか信念というか、気合である。

これは一般の編集者より、とくに編集長といわれる人が備えるべきものだけど、いずれ編集者として身を立てていくなら必ず持っていなくてはならない姿勢だと思う。そしてその点において、アツギの広告は、完全にその気合が欠如していたと言わざるを得ない。わたしはこの観点から、アツギさんとは違う経路で、編集者の不在を感じた。

世に出した企画が世間的に非難を浴びることは、はっきり言ってままあることだ。そして大事なことは、企画を世に出したからには、それを潰そうとする力には抗い、謝るべきところには謝るという、仁義を通すこと。それでもなお取り下げるべきだとジャッジされるならば、歯を食いしばって取り下げや回収をする。納得できないのなら訴訟だって辞さない、それが編集者の「気合」だ。叩かれたからってすぐ取り下げて謝るなんて、それはないでしょう。そんな気合のなさと思慮の浅さでやっとったんか、というのが、一連の出来事を見たわたしの感想だ。

去年某メディアで「カルチャー顔」という言葉を使った記事が炎上したことがあった。記事で名前を挙げられたミュージシャンの小袋成彬さんが、当該の記事を書いたライター(編集長)にTwitterで「ロンドンまで謝りにこい」と投稿して話題を呼んだ。この騒動でも、記事はかなり早期に下げられてしまって、わたしはげんなりしたのだが、その後ライターはちゃんとロンドンまで謝りに行ったらしく、その姿勢は筋が通っていてよいなと思ったのだった。

そしていまいちどわたしは自分のことを思い出す。そんな気合や覚悟を持てなくて、わたしは編集者をやめたんだ。自分や部下の企画のケツを持つというのはしんどくて、それに耐えられるほどには仕事が好きになれなくて、だからわたしは編集者をやめたんだ。

わたしがこれまで見てきた先輩編集者は、なにかやらかしたり炎上したりしたら、菓子折りを持って、スーツを着て、ちゃんとクライアントや依頼先に頭を下げに行っていた。いつもラフな格好をしている先輩がスーツ姿だと、「ゲザりですか」とからわれていたものだ。そしてわたしは、こんなに怒られたり謝ったりしているのに、なんでこの人たちはこんなに楽しそうに仕事ができるんだろうと思っていた。そんなふうな気合も覚悟も、わたしは最後まで持つことができなかった。

気合とか覚悟とか仁義とか、おまえは任侠の世界に生きとるんかという感じだけど、それは結局のところ、相手に対する誠実さを見せることであり、信頼関係を作ることなんだよね。それを学ばせてくれた職場には感謝しかないし、わたしはその世界から退場して当然だったと思っている。

誠実でいること、いつづけることということは、一面とてもしんどいことだ。でも編集者に限らず、ひとつの職業を長く続けたいなら、たぶんそれは逃げてはいけないことなのだろう。わたしは無理だったけど、これから編集者で身を立てたいという人は、たぶんそこは忘れない方がいいと思う。

ただわたしは、そんなふうになれなかったなという思いのまま、ずるずると、こんなところで記事を書いていたりするのだけど。そしてたまにTwitterでライティングや編集の話題になると少し熱くなったりしてしまうのだけど。そんな自分がたまらなく嫌なときもあるのだけど。まあ持続可能な塩梅で、ぼちぼちやっていくほかはないということで、ご勘弁ください……。

そんなことを、騒動を見ながら思い出したという、そんなお話でした。別に悲しい話ではないよ!! ちなみにいまは普通の事務職やってて、そこまで楽しくはないけど苦しくもなくて、まあやっていけてるので!! 以上です。


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