無気力無関心無感動

やる気を出さなければ失敗せず、
関心を抱かなければ失望もせず
感動しなければ心が揺らぐこともない。

無気力無関心無感動とはいわば変化を全く求めていない状態に等しい。
何かに飢えている人間は気力も関心も感動もあることだろう。

ただ何かが手に入らないことに慣れると人間はものを欲しがらなくなる。
生活水準が低下してもとりあえず生きていければやる気など当然なくなる。

何かを渇望することはもうなくなった。私はひどく受動的な人間になり下がったとも言える。しかし必要であれば能動的に行動するので受動的というのは間違いかもしれない。

人間の持つ欲求の大半は後天的に生じる。そのすべては価値を問われたときに無意味と切り捨てられてもおかしくないものだ。何故なら人間は社会において他者の情報を頼りに価値のありそうなものを欲しがりそのために行動するからだ。

しかしそれが手に入らないとどうか。衝動買いのように、欲しいと思った時には買ってしまうかもしれないが時間がたって理性を働かせてみると本当にそれを買う必要があるのかどうかという問いが生まれる。

限られたリソースの中でそれに投資をすることは果たして意味があるのかと考える。そしてリソースが限られていればいるほど購入を断念するのは当然である。優先順位を付けた時に下にあるものをどんどん切り捨てていくとどうなるか。最終的に生存にかかわるものしか残らなくなるのだ。

ある程度の余裕があれば優先順位が低いものも切り捨てずに済むので、欲しいという感情は残る。そして食べ物に困るほど生活が困窮すれば欲しいものは限りなく少なくなる。

一度価値がないと判断されたものに再び価値を見出すのはかなり難しい事である。だから生活水準が落ちるところまで落ちると必然的にミニマリストになってしまうのだ。

そしてミニマリストになってみるとどうだろうか。衣食住をどうにかできればほかに必要なものなどないと考える人間に果たして向上心が生まれるか。

無論生まれない。

生活水準の低い生活に慣れるということは何も望まないということであり、生活水準の向上も望まなくなるということだ。

その状況でいったいこれ以上何を望むのか。必要なものだけ買いそろえると生活費とは安く済むのである。暇なら寝ればいい、猫だってそうしている。

たまに友人と外食に行ったところでコストはあまりかからない。

毎日遊び歩かなければそこそこの生活というのは簡単に得られる。
だから変化など必要ない。無気力無関心無感動。


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