主人公は、本書を手にとったあなただ。 『ブギーポップは笑わない』著:上遠野浩平
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「そ、それじゃあ・・・・・・世界を本当に救ったのは」
「オレでもブギーポップでもない・・・・・・エコーズに優しくしてやった、あの寂しがり屋で、惚れっぽいお人好しだ。・・・・・・そういうことになる。でも、オレたちはそのことであいつに『ありがとう』とさえ言うことができないんだ、もう」
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(本書結末より引用)
言わずと知れたライトノベルの金字塔、というか始祖とも言われている本書。
「ラノベはちょっと...」とか思ってる皆さん。
怒らないから出てきてください。
とりあえず読んでみなさいよ、と。
キャラ立ち、余韻。それに一つの事件を様々な登場人物に語らせる手法。
何よりそれらを纏めて作品とするとは...。
やはり始祖であり「王道」に相応わしい出来栄えだろう。
「ラノベ」というレッテルで避けるのはもったいない。
では、出発である。
できれば、本稿はこの小説をお読みになってから読むのをおすすめしたい。
Boogiepop and Others
こちらは本書の英題である。
相応しいタイトルだ、と改めて思う。
自らを世界の危機が迫ると現れる「自動的な」存在だと語るブギーポップ(その他人外の皆様も登場)と、
深陽学園という公立進学高で様々な思惑を抱えた高校生たちが入れ替わり立ち替わり登場する物語なのだから。
本書を要約すると、
人間離れした戦闘力、迷いのないブギーポップが主要人物に見せかけて、
迷い、戸惑いながらもそれぞれの困難に立ち向かう登場人物達への賛歌である。
双方の対比と言い換えてもよいだろう。
「自動的な」ブギーポップは笑わないが、我々は笑える。
そもそもブギーポップのような動揺も迷いもしないキャラクターだけでは小説は成り立たないだろう。
それに、本書で言う「ヒーロー」は彼ではない。さらなる重要人物がいる。
それはなんと、女子高生にして二股という偉業を成し遂げた(ていた)紙木城直子である(高3)。
紙木城について
その高校3年生女子は語り手をつとめることないものの、ほぼ全編に登場する。
SFチックな、「人喰い」や宇宙レベルの存在まで登場する本書では珍しい非常に人間らしい人間である。
初登場時こそ、二股をかけるような浮ついている、クラスに一人はいるようなJKのような描写がなされている。
しかし、そこは群像劇である本書の利点、他の登場人物の語り口から彼女の魅力が語られる。
ブギーポップが出現する原因となった世界の危機については前章で少し触れたが、具体的にどういう事象かは本書の結末まで明らかにはならない。ならないが、何か重大なことが起きる、ないしは起きていたことだけが読者に伝えられる。
ようやく結末で世界の危機の全貌が明らかになったとき、紙木城はすでに亡くなっていることも同時に明かされる。
つまり、「世界の危機とは一体何だろう?」と思いながら読み進めると、そこまでの過程で最も魅力的に描かれている紙木城がもういない。
加えて、登場人物たちが紙木城の喪失に気づくと同時に彼女が「世界の危機」を回避する上で欠かせない役目を果たしたことまで明らかとなる。
そのどうしようもなさ、余韻が本書を単なるSFやラノベではなくしている。
確かに、気がついたらもう終わっているのが10代の日々である。ルーズなところはあるが、登場人物ほとんどにその愛情を向けるような紙木城。
もういない、その儚さが本書を名作たらしめる要素の一つであることは疑いない。
もう、何をしようとも彼女は我々の中にしか生きてはいないのだ。
それはブギーポップ(本書におけるラスボスを葬り去ったような存在)でさえ動かしようのない事実である。
我々人間が彼女を悼むしかないのだろう。
「ブギーポップにはできない-
笑うのは僕たちの仕事なのだ、と」(本書第一話末より引用)
同時に、悼むことは彼にはできない。
そして、「笑わない」彼ではなくこの世界の主人公は我々なのだから。
この余韻とともに。
以上
何かに使いますよ ナニかに