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新卒採用編その6 志望動機その2の5

今回は納得性の高い志望動機を構成する5つのキーワードのうち、最後の一つ、大学は職業訓練校なのか、というテーマについて書き殴ります。

今回のテーマは、志望動機を構成する際、前回も触れた通りパーソナリティに関する話と思ってください。

繰り返しになりますが、オーセンティックな志望動機が、
「①あなたはこうです、②自分はこうです、③だからいいと思いました。」
というものだとします。
「①あなたはこうです」の部分がありふれたフレーズだけになってしまうのは無理もありません。
しかし、「②自分はこうです」というパーソナリティと「③だからいいと思いました」という意見は、あなたしか持っていません。

この「②自分はこうです」というパーソナリティをどう捉えるかという話です。
日本の就職活動はたいへん特殊で、このパーソナリティに大学4年間で学んだことが何ひとつ反映されないということが往々にしてあります。
これは今の日本の大学と大学生と、そして企業の問題です。
せっかく大枚叩いて大学へ入学しても、単位で縛られた学生生活を卒なくこなしてろくすっぽ学問に向き合わず適当な卒論で卒業してしまい、大学で取得した学士という肩書きは企業によりよい条件で就職するだけための資格に成り下がっています。
また、単純に考えれば大学四年間の学習が一切反映されていなければ、大卒である必要はありません

実は企業が四大卒以上の学歴を欲しがるのは、海外展開の際に国によっては就労ビザ取得のハードルが上がるからといった裏事情もあって、覚えておいて損はない情報だと思いますが、まあ今回の書きたいことはそういう話ではありません。

大学と学生と企業の問題と書きましたが、一方で全く悪いことともいい切れません。本来大学には学問を通じて社会に貢献できる人材を輩出するためにある高等教育の側面と、新しいイノベーションや研究成果を世の中に展開する研究機関の側面があります。
学校教育法第五十二条には「大学は、学術の中心として、広く知識を授けるとともに、深く専門の学芸を教授研究し、知的、道徳的及び応用的能力を展開させることを目的とする。」と書いてあるので、まあ日本政府の見解もそういうことなんでしょう。
後者は学士レベルというよりは修士や博士のレベルで要求されることだと思いますが、前者が旧来に比べてより一般的になったのはいいことだと思います。
それこそ教育機会が本当に万人に均等にあればという前提なので、賛否両論あっていいと思いますが、この辺は門外漢なので言及を避けます。

また、偉そうなことを言っていますが私自身は私大文系四大卒で、それこそ学生生活は絵に描いたようなモラトリアムの延長そのものでした。だから、今回の話は自省であり自戒でもあります。

志望動機に大学で学んだことが何ひとつ反映されていないと書きましたが、大学のサークルや部活での活動は考慮にいれていません。もちろんそういった活動を否定する意図は一切ありませんが、極論、それは大学に入学する必要はない活動ですので、大学で学んだことの本流とは少し性質の違うものとして扱います。

そして、大学での学問が直接志望動機になりにくい理由は言うまでもなく、企業の事業内容とその人の学問の関連性の薄さにあります。
これは文系の学生に特に起こりやすい現象だと思います。現在の就職活動の現場では、理系の学生や専門学校の学生は比較的、ゼミでの研究内容や習得した技術が直接志望動機になり得ます。

医学や法律学、経済学、工学などいわゆる実学と呼ばれる学問は、対して虚学と呼ばれしばしば批判の対象となる分野に比べて経済活動との親和性が高く、企業の事業と候補者自身のパーソナリティの接近を容易にします。
求める人物像にそういった分野の習熟を問う企業であれば、入社後にもそのスキルを活かした仕事を要求されますので、ある程度ミスマッチも回避できるでしょう。
対して、文系学問のスキルが必要な産業は社会にどれほどあるでしょうか。当然全くないということはありませんが、教育などの知識の再生産を担うフィールドを除いては、ほとんどその関連性は間接的なものに留まるでしょう。

ここがポイントで、大学4年間で学んだことが何ひとつ反映されないのは、まあウチがメーカーや監査法人ではなくサービス業だからなんですが、企業もどういった学問が役に立つのかあんまりわかっていないからなんです。
もちろん間接的に、大学で習得した考え方や視点が日常業務やイノベーションにおいて役に立つことはわかっていますが、なにぶん直接的な親和性は低いので、有り体に言って何がどう役立つかハッキリわかっていないのです。ある種の揺らぎがあるというか、それこそ本人のマインド次第ですし、文系学問のジャンルでのフィルタリングは根拠に乏しく現実的ではありません。
企業がどう役立つかわかっていないので、候補者側がどう捉えていいものかわからないのも無理はありません。なので下手に企業に遠いと思われる地雷を踏むよりも、学問以外の比較的マイルドなパーソナリティに標準を絞る心理も理解できます。

ただ、志望動機でパーソナリティを表現する上で大学4年間の学業を蔑ろにするのは、非常にもったいないことだと思っています。せっかくの高等教育の機会を資格認定試験のような捉え方をするのであれば、それこそ専門学校や短期大学で専門教育を受けて即戦力性を磨いたほうが本人次第で生涯年収が大きくなることすら考えられます。


文系四大の現役学生もしくは卒業生の方々は、在学中にそれまでの自分の価値観を大きく揺さぶるような講義を受けたことはありませんか?

学校では教えてくれないことは世の中にはたくさんありますが、学校でしか教えてくれないこともたくさんあります。それまで触れてこなかった知識や体験に触れて、はじめて気付いたこと、そしてそれを自分なりに咀嚼して自分の血肉にすることは、何にも変えがたい成長の機会です。
とまで言うつもりはありませんが、どんなに不真面目にモラトリアムを謳歌していても、年1〜2回程度は大学の講義で衝撃を受けて、影響を受けたことはあるはずです。年2回として卒業までに8回、大学に通うだけで8回のコペ転(あまりにも古い言葉なのでネットで調べてください)に恵まれます。
それこそがパーソナリティです。8回もあれば、組み合わせ次第で様々な可能性があると思います。あとはあなただけの組み合わせであなただけの考え方を表現すれば良いのです。

とまあ、ここまで前置きです。
一方で私は、文系学問とは、無理矢理産業に落とし込んで、短絡的な成果を得るためにあるものではないと思っています。人文系の学問は特に、人間存在の根本に対する高次の探究です。
このあたりはちょうど最近わかりやすい記事を発見したので、それを(無断で)紹介することで説明に代えます。

大学が教育よりも職業訓練に注力するのは間違いである
(DIAMOND ハーバード・ビジネス・レビュー)
https://dhbr.diamond.jp/articles/-/6305

もうほとんど私が今回言いたいことはこれが全てです。

みなさん学生時代にリベラルアーツは自由選択科目というより「自由になるための学問」だという話はよく聞かれたと思いますが、私もそういった観点から、高次元の知性を求めていましたし、今もそう思っています。知識ではなく、知恵です。脳みその脇の方だけに詰め込まれるものではなく、前頭前野から脊髄にまで染み渡って人格を構成し得るものです。

だからこそ、ここで手に入れた8つやそこらの価値観の組み合わせは、その人のパーソナリティの芯の部分を構成し得ると思います。ここで固めた価値観は、その後の人生の中でも時折顔を出し、事あるごとにあなたを導いてくれるでしょう。
私は大学を出ておいてよかったと心から思っていますし、同時に、もっと向き合っていればもっと学べたと思って少し後悔しています。

これは自己分析の問題でもありながら、大学に行くこと自体の意義を問うことでもあります。せっかくなのでここらでその辺のことをちゃんと考えてみませんか?

このへんてこな枝番のついたナンバリングも今回で最後、次回からはシュッとします。次回は自己PRについてですが、ちょっとペースを落とそうと思います。じゃないとすぐ飽きそう。
書きたいネタは今日思いついただけでも20くらいありました。趣味の範囲の便所の落書きですから、ゆっくり書いていこうと思います。

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