記憶は煉獄訓練、音は極楽

 店舗や病院では音楽を流す。チェーン店はオリジナルのテーマソングやCMのこともあるが、特に音楽にこだわりのある店でもない限り大抵は「それっぽい当たり障りない曲」だ。
 若い世代向けの衣料品店なら洋楽、リラックスアイテムの店ならインストルメンタル。J-Popはあちこちで聞くが、コンビニエンスストアでは最新の曲が流れるが、家電量販店やホームセンターでは“少し前”の曲が流れている印象だ。曲名が分からなくてもなんとなく店内BGMに耳を傾けてしまうことが多いが、その中でも鬼門がクラシックだ。
 クリニックや羊印手芸店など、落ち着いた雰囲気が求められるスペースではクラシックの曲が流れていることがある。そのクラシックの中でも柔らかい曲調の室内楽や器楽曲であることが多いのだが、そうするとかなりの確率で私がバイオリンで弾いたことがある曲が含まれるのだ。
 発表会では舞台映えする“聴きやすい”曲が選ばれることが多いのだが、それは即ちパブリックな場所のBGMとして当たり障りない曲でもある。そのため何の心構えもなく手芸店でボタンを見繕っている時に突然ヴィヴァルディの『四季』より「春」の第一楽章を浴びせられて全身逆毛立つ思いをするのだ。
 私が『プロ』であればその程度で動揺することも無いだろう。むしろ演奏表現について論評のひとつもしたかもしれない。しかし悲しいかな、私はやっと続けているだけの中級者である。悶えのたうってどうにか弾ききった時の四苦八苦が噴き出してくるのだ。 
『こ、これはモーツァルト、ディベルティメントか?アイネクライネか?どっちの3楽章だったけ、ああぁ間に合わない指が追い付かない!!』
 世間一般ではソナタやコンチェルトのような小品は最も当たり障りのないBGMかもしれないが、私には突如と開かれる鬼門であり地獄の遠景である。世の中には奥歯に亀裂が入る思いでバッハの無伴奏パルティータを弾いている人間がいるのだから。


今日の英語:Background music

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