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モノサシが違えば私だって

地元の友達がはるばる我が家まで遊びに来てくれました。

お子さん連れだったので、近所の大型遊具のある公園にピクニックへ行きました。

そこにはロープを組んで作った「ザイルクライミング」という遊具があったのですが、友達の子ども達は怖くて2段目までしか登れなかったんです。

そこで「じゃぁ手伝ってあげるから上まで登ってみようよ!」と声を掛け、時間を掛けながら1段ずつ距離を伸ばしていき(何度も降りては再チャレンジした)、最後には3人で頂上まで登ることが出来ました。

私、子どもの頃から昇るのは得意で、うんていとか鉄棒とか、ロープ昇りとかも得意なんです。

でも、今回遊びに来てくれた友達は高校の時からの友達なので、高校体育の授業にあるような球技も、陸上も、水泳も、跳び箱も全部ダメという運動音痴の私しか知らなかったんですよね。

すいすいと上に登っていく私を見て「30年付き合ってて、そんな才能があるなんて知らなかった!」と驚いていました。

もし体育の授業に木登りがあったら、私だって運動音痴のチンチクリンじゃなくて、ヒーローになれたこともあったはず。

他の教科もそうだけど、誰かが決めた必修科目の中でナチュラルに威力を発揮できる人は本当に幸せで、学生生活を勝ち組として謳歌できるけれど、そうでない人は、例え他に才能があったとしても発掘されることもなく、自分自身、自分に人より秀でた才能がある事も認識しないまま時が過ぎ去っていくんだろうな、と思いました。

お勉強の出来/不出来、スポーツの出来/不出来、歌や絵が上手い/下手では人が測れるはずもないのに、学校生活で使われたモノサシを何も考えずに受け入れすぎていたわ。

人に対しても、自分に対しても、私は私のモノサシでキラリと光る才能を探していきたい、と強く思ったのでした。


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