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キミという弟のこと

 去年の8月、短い会話を交わして「じゃあ、またね」と手を振った。それが最後になってしまった。玄関に立って私を見送るキミの顔を、もっとちゃんと見ておくんだった、と思わずにはいられない。


 去年の11月の終わり、私はその日仕事が休みでたまたま家にいた。
天気はいいけれど洗濯をするのが億劫でダラダラしていると、母からLINEが届く。
”弟が数日前から体調を崩しているらしい。昨日からLINEの既読もつかず連絡もとれない。心配だから様子を見に行ってほしい”
 弟の住む家へ向かいながら、少しの胸のざわめきと、面倒だなという思いと心配する気持ちが入り混じる。
 鍵は開いていた。あぁ、居るんだな、と思いながら玄関の電気をつける。
 弟は、自分の部屋から廊下へ頭を半分出すようにして、うたた寝をしているかのような格好で横たわっていた。部屋の電気は消えているのに、テレビもストーブもつけっぱなしで、眠っているのだな、と思って、玄関から上がりながら「大丈夫?寝てるの?」と声を掛けた。

顔を覗きこんで、眠っているわけじゃない、と気づいた。

触るのが怖かった。触って確かめてしまったらそれを認めてしまうようで信じたくなかった。だけど、そう躊躇したのは一瞬で、頬を触ると冷たく、その柔らかな皮膚のすぐ下は、もうすでに硬くなり始めていた。病院へ行ったのか注射の形跡が残る右腕。その手の指先の色も変わってしまっていて、その姿は、もう二度と動くことはないのだという事実を私に突きつけた。

 母に連絡をしなければならない。けれど、母の気持ちを想うと、その事を伝えなければならないことが、なによりも辛かった。
 認めたくなくて、噓でしょう?と思う自分と、救急隊や警察に淡々と話をする自分。どこかで感情を切り離し、いろんな人に対応して事務的に事実を伝えながら、悲しみと、絶望感と、弟はどこへいってしまったんだろう、という疑問を繰り返していた。


 うちはたぶん、まぁまぁ複雑な家庭で、弟は私と9歳年が離れていて父親が違う。一緒に暮らし始めたのは弟が小学生にあがる頃からだ。6年間離れて暮らしていた母が、私と妹と父の住むところへまた戻ってきたとき、一緒にやってきた弟。当時中学生だった私は、それまでたまに会って遊ぶだけだった弟と、急に毎日顔を合わせて一緒に生活をすることになり、逆にどう接していけばいいのか…と、暫くは戸惑っていたような気がする。
 弟は、学校の友達と上手く付き合えず、放課後や休みの日には一緒に遊ぶ友達を毎日のように探していて、いつも誰かを追いかけているような子だった。
 家族の中では、当時絶賛反抗期中だった妹と反りが合わず、自然と私が面倒をみるようになった。私の聴く音楽を聴きたがり、私が描いた絵を欲しがり、それを真似して自分で描いた絵を私に見せにきた。誰か傍にいてくれる人を求めて一生懸命だった弟は、中学生の私からみても不器用で寂しがり屋な子だった。

 10代になった弟は、父が亡くなり反抗期も重なって、ますますいろんなことがうまくいかず、高校は1年も通わずに辞めた。その後すぐに働き始めたけれど、どこへ行っても何をやっても長続きせず、あちこち転々としていた。19歳のとき、BARでアルバイトをしたのがきっかけでバーテンダーに興味を持ち、以来ずっとバーテンダーをしていた。
 その頃になると、私も妹も実家を出ていた。暫くは母と弟の2人暮らしだったが、そのうち母も生まれ故郷へ帰ることになり、弟はまたひとりになった。
思えば、自ら家を出た私たちと違って、実家に残される形で結果的にひとりになってしまった弟は、そのことをどう思っていたのだろう。と、今更ながら考える。


 弟が亡くなった。仕事先のBARへ連絡すると、オーナーである店長がすぐに駆けつけてくれた。プライベートでは、弟が10代の頃に唯一よく一緒に遊んでいた友達に連絡をとってみる。その親友は、
「なに言ってんスか、この間の日曜日、一緒にテレビでサッカー見たばっかですよ?」
と、なかなか信じなかった。
その親友も仕事先の人も、ここ数年は、私たち家族よりもずっと弟と時間を共にしてくれていたのだ。
 なにも手につかない母に代わって、私と妹で葬儀の準備を進める。けれど、斎場は予約でいっぱいだった。葬儀ができるのは一週間後だという。諸々の手続きに追われながら、それでも弟との別れが少しでも伸びてホッとする自分がいた。
 葬儀に使う写真や弟の愛用していたものを選別しに、夜は私ひとり弟の家へ行く。そんな私に、帰っても眠れないからと、弟の親友が連日付き合ってくれた。30年前はまだフイルムカメラが主だった。現像されてアルバムに入りきらないくらい膨大な数の家族写真を久しぶりに全て見る。ずっとずっと忘れていた、出会った頃の弟のこと。写真を眺めていて、なぜ忘れていたのだろう…と思うくらい、当時の記憶がさまざまと浮かぶ。

髪が長かったから、しょっちゅう女の子と間違われていたこと。
カメラを向けるといつも同じポーズをしていたこと。
自撮りにハマって、隠れて何枚も変顔で自撮りをしていて、現像したらほとんどの写真が弟の変顔ドアップで、フイルムがもったいない!と怒られていたこと。

だけど、あの時のくだらないガラクタのような写真は、今こうして久しぶりに目の前にしたら、もう全然くだらない写真ではなくなっていた。少なくとも私にとっては、二度と撮れない貴重な価値のあるものだ。
写真は、本当に記憶のスイッチだった。

 弟が長年愛用していたメガネが見つからない。棺へ一緒に入れようと思っていたのに。弟を見つけたとき部屋にあったはずなのに。たぶん亡くなる直前まで使っていたであろうメガネは、どこへいってしまったのだろうか。

 葬儀までの一週間があっという間だった。安置されている弟にもう会いに行けない。こんなにもとどまりたいと思った一週間はなかった。姿が見られなくなってしまう、形がなくなって本当に完全にもう会えない、触れることもできないという事実が信じられなかった。それでも時間は確実に流れていて、その流れに逆らうことはできない。
 棺に入った弟が、炉の中にゆっくりと入っていく。ゴーっという音が不気味に響く。熱くて死んじゃう、とか、消えちゃう、とか、どこへいってしまうんだろう、とか、いろんな感情が渦巻くけれど、見届けなくてはいけない。扉が閉まる瞬間の映像は、この先もずっと忘れられないし、忘れたくないと思った。
指先が白くなるくらい強く手を合わせて聞くともなしにお経を聞く。あぁ、お経というのは、それを聞いているだけで、なにか訳の分からないぐるぐるとしたこの感情に、そっと寄り添う調べのようだなと思った。
 骨になった弟は、弟だけどもう弟じゃない。だけど、そこにいる。

 母は、その日のうちに東京を離れた。しばらく、ここへはこられないだろう。

 葬儀の慌ただしさが終わり、弟の部屋や台所などそのままにはしておけないので、弟の親友にも手伝ってもらいながら大掃除をする。なにから手をつけていいのか途方に暮れるくらい物で溢れている。たくさんのお酒のボトルとアンティークな物。片付けながら、ぽつりぽつりと最近の弟の話を聞く。

いつか自分でお店をやりたいと言って、お酒やグラスや置物をコツコツ集めていたこと。
週一で一緒に町中華のラーメンを食べに行っていたこと。
毎年一緒に旅行してたこと。
そして今年の弟の誕生日は、友人みんなでサプライズをする計画を立てていた、と。

弟は、33歳のお誕生日になる10日前に亡くなってしまった。
せっかくだから、ここで友人みんなで弟のお祝いをさせてほしいと言うので、ぜひそうしてあげてと答えた。

 ベッドの上に置かれたままの、飲まれなかった薬は、捨てることができなかった。片付けの途中で、弟のメガネがひょっこり出てきた。あんなに探しても見つからなかったのに。部屋の隅からは、小学生の頃の弟に欲しいと言われてあげた、私が描いた油絵が出てきた。

 夜中にひとりになるのが辛かった。家族の前ではどうしても慟哭することができない。けれど、ひとりになると、後悔と悲しみと苦しさが一気におそってくる。弟を見つけたときの絶望感とともに。だけど、あの体験をしたのが母や妹ではなくてよかった。あの日、私が休みで家にいなかったら、きっと母か妹が行っていたのだろう。あんな悲しみを体験するのは私ひとりだけでじゅうぶんだ。

 弟の誕生日は、母の誕生日の翌日だった。だから毎年一緒にお祝いしていた。葬儀の数日後は母のお誕生日だったが、こんな時だからこそ”おめでとう”とLINEを送る。「もう誰も見送りたくない」と、絞り出すように呟いていた。やっかいで、弱くて、愛しくて、かけがえのない母だ。

 弟の親友から誕生日会の様子が、写真と動画で送られてきた。
骨壺に「あんたが主役」と書かれた襷がかけられている。動画では、みんなでイチゴのホールケーキを囲みながらハッピーバースデーを歌っていた。ゆかいな仲間たちだな、と思わず笑ってしまう。
 10代の頃、友達がいなかった弟を繋ぎ止めてくれた彼は、弟にとって家族以上の存在だったのかもしれない。


 「姉ちゃんと話していると、ときどきアイツと話してるみたいな感じになる。反応とかが、たまにそっくりなんスよ」
と、弟の親友は言う。
 私たちはちゃんと姉弟で似ている部分があったんだな。私の中に弟の存在が確かにあるのだ、とその時思った。
 
 彼とはたまに会って話す。親友だった弟を失った彼の悲しみと寂しさは、きっと私たち家族と同じくらいか、それ以上かもしれない。



 先日の月命日に、初めて、弟が働いていたお店へ行った。私はBARのことには詳しくないけれど、とても人気で週末はいつも満席でなかなか入れないお店なのだそう。その日はカウンターに常連のお客様が何人か座っていて、お店で働いていたときの弟の様子をいろいろ話してくれた。

「森さんは、人の懐にするりと入るのが上手で、誰とでもすぐにうち解けて、どんな話題でも楽しく話をする人でしたよ。本当に、みんなからとても愛されていた。彼に会えないのがとても寂しいです」

 そうか、弟はいつの間にか、こんなにたくさんの人に愛されていたのか。
小さい頃は、人に愛されたくて愛されたくて、でもどうしたら愛されるのか解らなかった子だったけれど、ちゃんといっぱい愛されていた。
それは、私の知らない弟の姿だ。
不器用で、だらしなくて、淋しがりやで、やさしい。
そして、私が思っていたよりもずっと大人で、未来をみていた。

 弟のために最期まで尽くしてくれたBARの店長から、弟が好きでよく飲んでいたウイスキーを教えてもらう。普段、ウイスキーを飲むことは全くといっていいくらい無いけれど、弟を思い出しながらたまに飲もう。


 この間、キミの親友がLINEで嘆いていたよ。

「あいつ、ほかの友達の夢には出てくるのに、俺んとこには全然こないんスよ。」

ちょうど母の所へ帰っていた私は、

「お、今日これからお墓参りに行こうと思っていたから、たまには顔だしてあげて、って伝えておくよ」

と、返信した。

それなのに、お墓参りに行ったその日の夜、キミは私の夢に出てきた。一緒に暮らし始めた小学生の頃の姿で。
目覚めた瞬間「いやアンタ、こっちじゃないよ。キミの親友がまたガッカリするよ」と思いながら、嬉しさと悲しさと可笑しさで涙がでた。


キミと最後に会った8月のあの日から、もうすぐ1年が経つ。



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