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「今からは客として飲みます!」これが若き日の私の“全力”だった。

この記事は過去に投稿したものを加筆・修正しています。

いつかもう一度訪れたいと思っていた店があった。
それは福岡県久留米市にあるアイリッシュパブだ。
最初に訪れたのは1998年7月、旅行情報誌(福岡)の取材だった。

それから時が流れること17年。
2015年に夫と九州を旅行した時に、「どうしても」とお願いし、久留米まで足を延ばし、この店を再訪した。

久留米に着き、懐かしいパブのドアを開けると、お客さんは誰もおらず、カウンターの中にマスターが立っている。
夫と二人でカウンターの椅子に腰掛け、メニューも見ずに「ギネスください」と私。マスターもうなずく程度で、すぐにギネスをそそぎ始める。

白いクリームみたいな細かい泡の美しいギネスビールが目の前に置かれた。
ああ、これだ。あの時と同じ……。
早く飲みたい気持ちを抑えつつ、私はおもむろにマスターに切り出した。
「あの……、覚えていらっしゃらないと思うんですけど……、私、17年前にこちらに取材に来たことがあって……」
そう言うと、マスターはまるで私が来ることを知っていたかのようにこう言ったのだ。

「山王かおりさん、でしょ?」

信じられなかった。
17年前に、たった一度訪れただけのお店のマスターが、私のことを覚えていてくれたのだ。

あまりの出来事に驚きと感動で震えが止まらず、「え?なんで?なんで?」と繰り返しているとマスターは静かに微笑んで言った。

「いつかもう一度来ると思っていましたから」

その瞬間、胸がいっぱいになって、私の目から涙がポロポロこぼれた。

*   *   *   *

1998年夏。
私はまだ20代で、駆け出しのライターだった。
大学を卒業して就職もせず、「フリーライター」になったものだから、まだ仕事を選べるような余裕はなかった。とりあえず、どんなにハードだろうが、報酬が安かろうが、「いただける仕事は何でもやります!」という姿勢でいた。

編集長が一人でやっているような小さな編集プロダクションから、旅行情報誌やフリーペーパーの取材記事の仕事をもらえるようになったが、これがとんでもなく過酷だった。
もともと情報誌の報酬は高くないが、私は「孫請け」なので、さらに安い。
どれくらいこの案件が過酷かというと、こんな感じで編集長から指示がくる。
「久留米20件、柳川8件行ってきて!」
もちろん、1件のアポも取れていない。カメラマンなどの同行者もいない。取材件数のほかは「締切」と「宿泊にかけていい日数と経費」を伝えられるだけで、遠い土地へと送り出されるのだ。
この時もまだたいして使いこなせない一眼レフカメラを背負い、私は1人で大阪から福岡へと旅立ったのだった。

さて、久留米市にやってきたのはいいが、猛暑。
暑い中、汗だくになりながら見知らぬ街を歩き回り、良さそうなお店を見つけると取材交渉から始め、その場で取材する。自分で撮影も行う。それを3、4日で20件もこなさなければならない。記事を書くのは大阪へ帰ってからで、1件200文字程度の短いものだ。

1990年代後半である。
今のようにスマホもない。Googleマップも「食べログ」もないのだ。ではどうするかといえば、ひたすら自分の足で歩いて、自分の嗅覚を信じて良い店を見つけていくしかない。
飲食店以外に、雑貨屋、お土産屋、公園・神社・寺・美術館などの観光スポットもOKだが、久留米市内にはそこまで多くの観光スポットはなかった。それも「できるだけ昨年掲載したものは外してね」と言われている。

「むちゃくちゃやん!」と思う。
しかし、何でもやらなければならない。どんな小さな仕事でも誠意を尽くしてやるんだ。それが必ず後の仕事に繋がっていくはずだ。そう信じてひたすら任務をこなしていた。

父親の反対を押し切って就職活動もせず、フリーランスで生きていく道を選んだのだ。この道が歩きやすく穏やかだなんて最初から思っていない。険しく厳しいことはわかっている。それでもこの道を選んだのだから、これくらいで弱音を吐いてはいけない。

そう自分を奮い立たせたものの、暑い久留米の街をあてもなく一日中歩き回るのは辛かった。思うように成果も出ない。
店側にしたら掲載費を支払うわけでもなく、全国の書店に置かれる雑誌に載るのだから、いわば「無料の広告」。普通は断る理由などないので、どんどん取材を承諾してもらえると思っていたのだが、それが甘かった。
私は食へのこだわりが強く、おいしい店を探すのが得意なので、それが裏目に出たのだ。
「ここは匂う……!!絶対いい店だ!」
そう確信して入り、取材交渉すると8割は断られた。理由はこうだ。
「うちは常連さんだけで十分なんです。そんな雑誌に載って観光客にたくさん来られても困るので……」
ああ、鼻が効きすぎるというのも困りものだ。
逆に「悪くはないんだけど、自分なら行かないだろうなぁ」と思うくらいの店だと、店主は喜んで引き受けてくれた。
自分が心から勧めたいと思う店やスポットを書きたいという気持ちが強く、なかなか妥協できずにいたが、それでは永久に大阪へ戻れそうもないので、時折「まあまあ」の店も混ぜるしかなかった。

ただ、引き受けてくれたお店の人も皆、取材のやり方を聞くと驚く。
「取材はいつですか?」
「できれば今、30分くらいでお願いします」
「今?」
「はい、もしくは2日後までなら日時を改めさせていただくのでも構いませんが、大阪から来ているので、○日には帰らないといけないんです」
「取材って、あなたがするの?」
「はい」
「撮影も?」
「はい」
小さな写真1枚と200文字程度の文章なので、昨年の掲載誌を見せれば、こういう突撃取材であることも理解してくれた。「大変やねぇ」と同情してくれた人もいた。
こうして、できるかぎりその場で。もしくは「翌日の○時」などのアポをとりながら、1件、また1件と少しずつ取材を進めていった。しかし、ミッションの20件まではまだ遠い。

そんな地道な取材も、すでに2日目が終わろうとしていた。
まだ予定の件数をこなせていないという焦りと疲労で、フラフラになりながらホテルに帰ろうとしたその時、店の灯りが目に入った。
昼間は灯りがなかったのでわからなかったが、暗くなってそこがパブだと気づいたのだ。
私のアンテナがピピッと音を立てた。
「このパブはいいかも……」
私は今日最後の仕事にしようと、その店のドアを開けた。

中は薄暗く、英国調の雰囲気。奥のカウンターにマスターらしきダンディな男性が立っている。
思い切って近寄り、取材のことを頼んでみた。
マスターは見本誌を手にとり、一瞥すると、冷たく言い放った。
「こういうのはいいよ。前にも取材されたけど、こっちが話したことと違うことを書かれたからね」
頑として受け付けないという態度だった。ほんの少しの隙も見つからなかった。

それでも、私は引き下がらなかった。これまでとは断られた理由が違うからだ。「私はちゃんと書きますから!」マスターに必死に頼みこんだ。
すると、あまりのしつこさに折れたのか、マスターは言った。
「じゃあ、あなたはこの店を見てどう思う? 私は何も話さないから、あなたが見たことを書いてみて。載せる前にそれを読んで決めるから」

……挑戦だ!
これは私への挑戦なのだ!
私はこういうときに引き下がるタイプの人間じゃない。自分の中でフツフツと何かが燃え上がるのがわかった!

「じゃあ、ビールを」
「え?」
私はカメラもメモもペンも名刺もすべて置いて、マスターの正面のカウンターに座った。

「ビールください。今日はもう仕事は終わりなんで、今からは客として飲みます!」

マスターはさっきとは明らかに違う視線で私を一瞥し、黙ったままビールをそそいだ。
目の前にギネスビールのグラスがコトンと置かれた。
真っ白でクリーミーな泡。黒ビールとの対比が美しい。
手を伸ばし、一口飲むとため息が漏れた。
コクがあるのになんて爽やかな喉ごしなんだろう。渇いていた喉が一気に潤い、1日の疲れが吹き飛ぶようだった。 
やはりこういうビールを隠してたか、この店は……。
私が素直に感想を言うと、マスターは初めてビールの説明をしてくれた。
「こだわりをもったギネス生ビール。1杯700円」と、私は心の中にメモった。

そして、そのビールを飲み終わる頃、マスターと私の前にあった厚い壁は、なくなりかけていた。マスターがポツポツと話し出してくれたのだ。

「こういう雑誌はね、”おしゃれな”とか、すぐに使うでしょう。女性向きに書くんだね。でも、私は旅の途中のバックパッカーたちが立ち寄って、旅の情報を交換するような店のつもりだから」

私はうなずいて、店内を見渡した。アンティークな家具。英国の雰囲気。古いジュークボックス……。きっとこれらに何か大切な“想い”があるはずなんだ。それをどうしても引き出したかった。
そこで、今度はウイスキーを注文した。
スコッチ・ウイスキーをロックで私の前に置き、マスターはようやく笑顔になって言った。
「こんな取材の人、今までにたくさん来たけどね、お酒をほんとに飲もうとしたのは、あなたが初めて」
その一言で、マスターとの間にあった厚い壁が崩れていくのを感じた。

それからのマスターはひたすら自分のことを語り続けた。若い時のこと、今の暮らし、そしてこのパブへの想い……。若い頃、世界一周したのだと言い、私が興味をもつと奥からアルバムまで持ってきてくれた。
そのアルバムには、若いマスターとお友達の写真がいっぱいだった。いろんな思い出話もしてくれた。

そして、イギリスに行った時、このお店のようなパブに通っていて、どうしてもそれをここでも再現したかったのだと話した。
この店にはマスターの若い頃の夢がいっぱい詰まっていたのだ!
これまでに取材に来た人たちは、その“想い”にすらたどり着かず、自分の感覚だけで「おしゃれな」「雰囲気のよい」など無難な言葉でまとめてしまったんだろうなぁと思った。
今なら最初に取材拒否された理由がわかる。

私はといえば、酔っ払ってきた頭の奥で、「私は書ける」と思っていた。記事はほんの数行、たったの200文字程度。正直なところ、私の想いもマスターの想いも入れるスペースはない。だけど、ちゃんと気に入ってもらえるものが書けるなぁと確信していた。なぜなら、私はマスターの想いをきちんと受け取ったからだ。それさえわかっていれば、大丈夫だと思えた。

その後、なんとか予定の日数で取材をすべて終え、大阪に帰るとまず最初にマスターの店の記事を書いた。そして、入稿前に郵送でマスターに送った。(メールすら全員がやっていない時代だ)
2日ほどして、マスターから電話があった。そして、こう言ってくれた。
「ありがとう。ちゃんと私が書いてほしいことが書けてたよ」
電話を切った後も、嬉しくて興奮が止まらなかった。あぁ、私、ちゃんと書けたんだなぁ、マスターの想いを受け取れていたんだなぁと思った。

もちろん、読者にとって必要なのは情報だ。
「駅から徒歩○分」
「人気商品はこれ」
「ランチが1000円」
必要な情報を読み手に届けることがライターの仕事。
だけど、書かれる人にとったら、それは愛情と思い出がいっぱい詰まった店かもしれないのだ。
そのことを書き手は絶対に忘れてはいけないと思う。

たった数行の誰の目にも止まらないような小さな記事だが、この経験が私にライターとしての矜持を持たせてくれた。
「どんな小さな記事でも全力で、取材した相手が喜んでくれるものを書けば、それは大きな価値がある」
過酷で安い仕事から抜け出せずにいた私にとって、マスターとの出会いはとても大きなものだった。

*   *   *   * 

きつい仕事の時、何のために書いているのかわからなくなる時、慣れと要領で書けるようになって怠慢が顔を出す時、私はいつもこのマスターのことを思い出していた。
そして思っていたのだ。いつかもう一度あのパブを訪れたいと。一人前のライターになって、今でも書き続けている姿を見てもらいたいと。

そして、2015年、ようやくその日が来た。
17年越しの思いを抱えて、あのパブのドアを再び開けたのだった。
だから、私が名乗るより先に名前を呼ばれた時は、本当に驚いたし、胸がいっぱいになった。ようやく再会が実現したと思ったら、まさか覚えてもらえていたなんて……!

実は、そこにはこんな裏話がある。
私は20代の頃、自分のホームページを作っていて、その中で先に書いたようなマスターとの出会いをエッセイにして公開していた。
それをたまたまこのパブの常連さんが読み、「これって、この店のことじゃない?」とプリントアウトして持って来てマスターに見せたのだという。
だから、マスターはすでに私のこんな思いを知っていたのだ。
駆け出しのライターであること、過酷な案件を抱えて久留米に来ていたこと、どんな想いで「客として飲みます!」と言ったのか、マスターの思いをどう書きたかったのか、そしてこの経験がライターの自分をどんなに助けてくれたのか。
だから、「いつか来るだろう」と待ってくれていたのだ。

それから、私のエッセイをプリントアウトしたものを、他のライターに見せていたとも話してくれた。
「あの頃、久留米のタウン誌の人が来るといつも見せてたよ。取材するなら、これくらいの気持ちでやらないとダメだって」
なんだか恥ずかしかったが、そう言ってくれたことが嬉しかった。

また、ひとつだけダメ出しもされた。
「あなたに会ったら、ひとつだけ言ってやりたいと思ってたことがある。あのエッセイの中で、僕のことを『初老の男性』って書いてたでしょ?僕はあの頃まだ40代なのに、初老はないでしょ!!」
笑いながらも結構本気で怒られて、私は平謝りした。20代の自分からすると、マスターが世界一周などあまりに多くの経験をされていたので、もっと年齢を重ねられているように見えていたのだ。本当に失礼なことをした。(よって、このエッセイでは『初老の』ではなく『ダンディな』とした)

それから小一時間ほど、夫も含めて3人でおしゃべりしてホテルへ戻った。
帰り道もまだ興奮していた。夫も目の前で奇跡を見た人のように感動していて、「すごいなぁ」「よかったなぁ」を繰り返していた。
私はずっと胸がいっぱいだった。幸せで、幸せで、本当に心の震えが止まらなかった。
ようやく会えた。覚えていてくれた。お元気だった。変わらず素敵なパブだった。この仕事を続けてきてよかった……。

幸い、今はいろんなご縁で、やりがいのある仕事をたくさんいただいている。でも、その一つひとつをたどっていくと、いつも「小さな仕事」が出発点だったことに気づく。

たとえば、これも駆け出しの頃、あるライターさんに「安いんだけど、やってみる?」と紹介された案件があった。大阪府の若年層向けの就職支援施設内で求職者が検索して見る「大阪の中小企業紹介」の記事を作成するというものだった。
アポはとってもらえるが、1件取材して撮影して2000文字くらいの記事を書いて5000円。
紹介してくれたライターさんは私よりキャリアがあったので、「安すぎるので断りたいが、単に断るのは角が立つので、代わりのライターを立てたい」と思っているようだった。
せっかく声をかけてもらえたが、内容が地味だし、安すぎるし、あまり魅力を感じられず、私も迷った。
でも、そんな時もあのマスターとのことを思い出したのだ。
何かまたいい出会いがあるかもしれない。小さな仕事でもコツコツ誠実に、全力でやっていれば、次につながるかもしれない、と。最終的に「ええい!損して、得とれ、だ!」と自分に言い聞かせて引き受けた。

この案件では大阪府の中小企業をたくさんまわらせてもらった。ものづくり企業(製造業)が中心で、取材は想像以上に面白く、この世の中のものはすべて「誰かの手」でできていることを実感した。
とにかく一生懸命やっていると、そのうち就職支援施設の中での別案件にも声がかかるようになり、冊子や短いコラムの連載などを任された。
そして、その施設で出会ったデザイン事務所と一緒に仕事をすることになり、大阪府のさまざまな事業の成果物や広告物の制作に関わらせてもらい、さらに多くの企業を取材した。ある年は新卒向けの1000社を掲載した分厚い本の制作にも関わらせてもらい、多くの記事を書いた。
また、そのデザイン事務所の紹介で、別の制作会社から大手家電メーカーの広告記事なども請けるようになった。
そんな実績をもとに、さらにいろんな案件へとつながっていった。
そして、今の私がある。
振り返ってみると、「あらゆる業界の企業で働く人を取材して書くこと」が私の得意分野になったのは、あの5000円の案件が原点だったのだ。

人生には「ご縁」というものがある。それは目の前をさっと一瞬で通り過ぎてしまうものだから、いつも心を澄ましてよく見ていないといけないように思う。そして、心が少しでも動いたら、とにかく「やってみる」ことだ。それも全力で、誠意を尽くして。そうしたら、何か学ぶことがきっとある。次につながることもある。

今も仕事の大小に関わらず、私の姿勢は変わらない。
「全力でいいものを書く!」
バカみたいに真面目で熱くていいのだ。
あの頃の「全力」があったからこそ、今があるのだから。
若かりし頃のたった一つの出会いが、仕事への向き合い方を教えてくれた。


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