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ひとつの雑誌を10年書き続けるということ

日本酒の業界誌「酒蔵萬流」という雑誌でライターとして書かせてもらうようになって、もうすぐ10年が経つ。
創刊号は2014年4月。
初めて取材に行ったのが2013年の秋だった。

今でこそ、日本酒ライターっぽい取材もできるし、それなりに自分らしさも出しながら記事を書けるようになったが、始めた頃は素人同然。まともなインタビューなどできなかった。

たとえば、「こういう機械で米を洗っています」と言われても、それが特別なことなのか、一般的なことなのか、その区別がつかない。
初めて見るものがほとんどなので、「珍しいですね!」と言うと、「どこでも使ってると思いますけど……」なんて訝しげに返されたこともある。

一度でもそんなことがあると恥ずかしくなり、質問も消極的になってしまうのが私の悪いところだ。これではいけない、「一時の恥!」と覚悟を決めて質問することもあったが、やっぱりトンチンカン。そもそも何を質問してよいのかさえもわからない、なんてことも多々あった。

それまで私はありとあらゆる業界の、いろんな職業に就いている人たちに取材をして記事を書いてきた。だから、日本酒業界の記事も書けると思っていたのだ。でもそれは甘かった。
大きな違いは「業界誌である」ということ。
一般消費者に向けた商業誌やWEBサイトのような媒体なら問題なく書けただろうが、読者は酒造関係者のみ。簡単に言えば、酒造りのド素人がプロに話を聞いて、プロに興味を持ってもらえる、あるいは役に立つような記事を書かなければならないのだ。それはあまりにも高いハードルだった。

たとえば、建築の勉強などしたこともない人が、一級建築士に取材をして、建設業界の人たちが読む(それも役に立つことを目指した)業界誌を書けと言われたらどうだろう。
設計図を見て専門的な質問ができるだろうか。何が標準で、何がその人の個性なのか区別がつくだろうか。おそらく現場で使う道具の名前ひとつわからないのではないだろうか。いわば、そういう状況だった。

今でこそ、この雑誌のライターは5人に増えたが、最初の6~7年は2人ですべての記事を書いてきたから、これも大きなプレッシャーだった。
私以外のもう一人のライターというのが、日本酒業界にがっつり入り込んでいる方だったからだ。当時から日本酒講座の講師や日本酒イベントの監修などもされていたし、プライベートでは懇意にしている蔵元さんのところで酒造りのお手伝いをしたり、酒米を栽培している圃場へ行き農家さんと話をしたりもしていた。ちなみに、今ではもっと活躍の場を広げられている。(私の最も尊敬する日本酒ライターさんだ)

つまり、日本酒に関する知識も経験も業界の人脈も、私とは桁違いに多い人と同じ土俵にあがって、記名入りで記事を書かなければならないのである。こんなプレッシャーがあるだろうか。
私にあるのは、きき酒師を取得した時に勉強した程度の、ごく表面的な知識と、インタビューや記事を書くライターとしてのスキル・経験のみ。もしかしたら誰も比べていなかったかもしれないが、当時の私はいつも彼女と比べられている気がしていた。

とにかく勉強しようと思い、日本酒に関するいろいろな書籍を読み、泊まりがけで行く酒造り講習会にも2回参加(静岡と島根)。日本酒イベントやきき酒会などもできる限り顔を出し、蔵元さんに名刺を配ったりお話をさせてもらったりして、知識をつけよう、業界で人脈をつくろうと頑張った。でもそういうのは、今振り返ると「焼け石に水」みたいなものだったなと思う。ほとんど役には立たなかった。

結局、私が日本酒ライターとしてそれなりにやれるようになった要因は、個人的な勉強でも人脈づくりでもなかった。ひとことで言えば、「場数」だ。
季刊誌で年4回発行。1号につき7蔵を二人で分担して取材する。つまり、一年で14社前後の酒蔵を担当していた。そうすると、さすがに2年目くらいには「何が標準的なこと」で「何がその蔵の個性」なのかがわかるようになってきた。
そんなこと?と思うかもしれないが、これがかなり重要で、酒造りの設備を見たり、やり方を聞いたりした時に、「これは他の蔵とは違う」とわかれば、「なぜこの設備なんですか?」「なぜこんなやり方なんですか?」と深掘りすることができる。その回答がその蔵の個性を表している。そこからもっといろんな話を聞いていけば、「ああ、だからこの蔵はこういうお酒を造っているんだ」とわかる。それが記事のテーマになる。

取材に行く「場数」だけではない。記事を書く「場数」も同様に、私のスキルを上げるのに役立ってくれた。
当初は知識レベルが低すぎて、聞いた話に自信がないものだから、たった1行書くのにも手が止まり、ネットや本で確かめるということが続いた。
たとえば麹室での作業で「~のときに温度を上げる」という文を書くとする。確かに蔵元はそう言っていたが、書きながら「なんでここで温度を上げるんだろう?」と疑問が湧く。麹造りについてまた基礎の教科書を出して調べる。ネットで同じようなやり方をしている表現がないかを探す。自分で納得がいくまで調べ、自信を持って「こうだ」と言えるようになって、初めて書くことができた。
大げさでなく、1行、2行書くごとにこんな調子だから、3500文字程度の原稿を書くのに何日もかかった。ただ、これを繰り返していくうちに、いつの間にか酒造りの知識は蓄積されていった。

30社くらいをまわる頃には、取材中に蔵元さんから「さすが、よく知ってますね!」「あ~、もうこんなこと説明しなくてもわかりますよね?」などと言ってもらえるようになった。
そういう言葉は本当に嬉しかったし、「ようやくここまで来たんだ。ここがスタートラインだ」と思うことができた。
そう、やっとスタートライン。「さあ、これからだ!」と自分を鼓舞した。

また、「酒蔵萬流」を始めた頃、私は他の仕事も多く抱えていた。思い返すだけでぞっとするけれど、仕事部屋の壁中にいろんな案件の進行表が貼られ、いつ寝ているのかわからないような生活が続いていた。
そして、2016年3月にガンが見つかり、手術、抗がん剤治療(3クール)をすることになる。「自分の体のことを一番に考えて」とクライアントには言われたが、休みたくはなかった。自分の記事が載らない号を出したくなかったのだ。幸い、手術前に取材していたストックがあったので、2記事だけでも掲載してもらい、この秋にはもう取材を再開していた。

1年近くウィッグをかぶっての取材になり、それも大きなストレスではあったが、休むことのほうが嫌だったので続けた。だって、ようやくスタートラインに立てたのだ。これからなんだと思ったら、休んではいられなかった。勉強することはまだまだあった。
この時期は今のように体が弱っておらず、手術前と同じように元気だったので、3年間は変わらず仕事を続けた。以前のように無茶な生活はやめ、仕事もそこまで忙しくはなかった。

ただ、やはりライター2人でやっていくのは無理があり、どちらかが倒れれば発行が難しくなるということもわかったので、2019年に新たなライターを2人迎えることになった。2人とも日本酒業界にがっつり入り込んでいる人だったので、私はまた始めた頃のようなプレッシャーを感じた。
夫によく「本気で言ってるの?」と驚かれるが、私は自己肯定感がおそろしく低く、自分に自信がないので、新しいライターが入ってきたことで「もう自分はお払い箱だ」と本気で思ってしまったのだ。2人とも知識や経験、人脈、スキル、すべてにおいて私より優れているように思えた。6年間頑張ってやってきたけれど、私はもうこの雑誌に必要とされないんじゃないかと、2人が記事を書く前からそんな想いに悩まされた。

それが原因かどうかはわからない。
3年間何ともなかったのに、2019年夏にいきなりガンが再発した。この秋から本格的に新しい2人に活動してもらうことになっていたので、ある意味タイミングは良く、雑誌の発行に影響はなかった。
再び抗がん剤治療が始まり、これを機に辞めることも考えたが、やっぱりいざ「辞める」と考えると躊躇した。

なぜって、酒蔵の取材が好きだったからだ。
空気が凍るような寒い朝、甑から真っ白い湯気が上がるのも、蒸米を蔵人が担いで走っていくのも、麹室で蒸米に種麹を振る時の神聖な雰囲気も、何もかもが好きだった。
何よりも発酵タンクの中の醪は美しく、そこにはいつも私の想像も及ばないような微生物の世界が広がっていた。まるで宇宙のような。いつもその神秘的な世界を解き明かしたくて、その造り手の想いを知って書きたくて仕方がなかった。

これを最後にしようかと思っても、酒蔵に行けばまた楽しくなる。続けたくなる。
クライアントに無理を言い、心配をかけながらも、「近場で1号につき1蔵だけ」という約束で取材は行かせてもらった。辞めさせられてもおかしくなかったのに、それが本当にありがたかった。

そして、治療をやめてから3年近く経つ今は、1号につき2蔵くらいは取材に行かせてもらっている。取材した酒蔵はいつの間にか100社を超えた。
現在、4月号を執筆中。7月、10月、来年1月号まで書けば、創刊号から丸10年になる。
創刊した時、クライアント(発行元)の社長に「とりあえず10年続けましょう」と言われた。その時は「10年」という年月が果てしないもののように思えたが、本当に10年を迎えようとしていることが感慨深い。

体調は良い時もあれば、悪い時もある。
これから先もどうなるかはわからない。
だけど、ここまで来たら、どうしても10年やり遂げたい。来年1月号まで。
その後のことはまた考えるとして、今はただ、1つのゴールをそこに見ている。
いつも何の自信もない私だけど、これを10年やり遂げられたら、ちょっとだけ自分のことを認めてあげられそうなのだ。

「よく頑張った!あんなプレッシャーと、あんな無知でどうしようもない状態で、恥をかきながらも歯を食いしばって、ようやった!何度も逃げ出したくなったのに、逃げなくて偉かった!」

その時には自分で自分にそう言ってやりたい。

あと少し。
何がなんでも、続けるんだ。
人生で、1つくらい、誇れるものを私は持ちたい。

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