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病める時も健やかなる時も、そばに。

この記事は、過去に投稿したものを一部使用し、編集し直しています。

病める時も健やかなる時も、
悲しみの時も喜びの時も、
貧しい時も富める時も、
これを愛し、これを助け、
これを慰め、これを敬い、
その命のある限り
心を尽くすことを誓いますか?

「誓います」

2007年4月29日、私と夫は人前式で誓い合い、署名した。
家族や友人の大きな拍手とあふれる笑顔に包まれ、今ここにある幸福を噛みしめた。

最近になって、よく「病める時も健やかなる時も」という言葉を思い出す。あの時はそれがどういう「時」なのか、具体的には想像できていなかった。
ずっと健やかに生きてきたし、なんとなくそれは続いていくもののような気がしていたから。

2016年2月、子宮体がんが見つかり、子宮、卵巣・卵管の摘出手術を受ける。腹水にもがんがあったため、大網も切除。その後の病理検査で摘出した臓器の毛細血管にわずかながん細胞があったため、予防として3クールの抗がん剤治療(TC療法)を受けた。
半年ごとの採血とCT検査は何事もなく、3年が過ぎた。根治に成功したと思い疑わなかった。

2019年7月、骨盤リンパ節および腹膜播種の再発がんが発覚。肺にもわずかに転移が見られた。
延命治療しかできないと言われたが、希望を持って前と同じく抗がん剤治療をスタート。だが、9クール目に抗がん剤(カルボプラチン)のアレルギー反応が出た。アナフィラキシーショックを回避するため治療を中止。
その後は、食事療法や東洋医学、保険の効かない自由診療、民間療法など、思いつくあらゆることを続けた。そのおかげか、がんの進行はとてもゆっくりで、痛みなどの自覚症状もほぼなく、このまま共存していけるかのように思えた。

体に変化を感じたのは、2022年3月のこと。その半年前くらいから、時々お腹の痛みはあったが、生活に支障が出るようなことはなく、ライターとしての仕事も家事も飲み会もキャンプもこれまでと変わりなくできていた。
しかし、急激に食欲がなくなり、腹痛や倦怠感が強くなり、寝て過ごすことが増えてきた。体重も激減。体調と並行するように、がんの進行も早まり、3~4か月に一度の検査結果も悪くなっていった。

2023年10月、検査結果を見て、これ以上何の治療もせずにがんと共存していくことは無理だと悟る。このままだと余命2年くらいかな、となんとなく思う。それくらい「悪くなる一方」で、光は見えなかった。
2022年2月に保険適用になった「キイトルーダとレンビマの併用療法」を主治医に勧められ、仕事が一区切りつく4月から治療を受けることに決めた。
保険適用になった当初も勧められたが、その時はまだ私の通う大きな大学病院でもほぼ誰も受けたことがなく、何のデータもない状態だった。半年ほど経って数人が受け始めたが、副作用が強いわりに効果が出ている人がいないと聞き、主治医も積極的に勧めてはこなかった。それより何ページにもわたって書かれたあらゆる副作用が恐ろしく、2022年の段階では決心がつかなかったのだ。だが、もう覚悟を決めるしかなくなった。

2024年2月の検査結果で、やはり昨年10月に感じた「悪くなる一方」を目の当たりにする。お腹に散らばっている腫瘍は大きいもので直径7cmほどもあり、手で触ってもわかるくらいになっていた。また、肺や左鎖骨辺りのリンパ節への転移だけでなく、初めて肝臓への転移も見られた。
これはショックで、主治医もさすがにもう一刻の猶予も与えてくれなかった。私は仕事の区切りがつくのを待たず、3月の取材はすべてキャンセルし、3月早々に治療を開始した。

あれから5か月。
幸い、この治療法は自分に合っていたようで、驚くほど効果が出ている。腫瘍は目に見えて小さくなり、腫瘍マーカーの数値は基準値まで下がった。食欲も出て、2年ぶりに体重が減少から増加へ転じ、確かに「良くなっていること」を感じられる。
とはいえ、副作用の強い薬だ。もともとあったお腹の痛みも続いているうえ、副作用もあるので、まだ健康だった時と同じような生活はできない。毎日7~8種類の薬を飲みながら、痛みや倦怠感に耐え、1日のほとんどを布団の中かソファの上で過ごしている。仕事も長期休業にしてしまったので、外出することもほぼなく、人と会うこともない、淋しい療養生活だ。

そんな毎日でも、なんとか笑って生きていられるのは、周りの人の存在が大きい。家族はもちろん、友達や仕事仲間が時折送ってくれるメールやLINEがどれほど嬉しいか。「調子はどう?」と聞いてくれるだけでもありがたい。自分が多くの人に助けられ、支えられて生きてきたことを実感する。
特に生活を共にする夫には感謝しかない。

夫は家事などする人ではなかった。私より10歳年下で、結婚した時、彼はまだ24歳。一人暮らしもしたことがなかったから、料理どころか、掃除も洗濯もまともにやったことがないような人だった。自分が使ったお茶碗ひとつ、コップひとつ洗おうともしなかった。

今でもよく覚えていることがある。
結婚してすぐの頃、彼が仕事で2週間くらい、東京に一人で住まなければならなくなり、洗濯機やキッチンのついたウィークリーマンションに泊まっていたことがあった。
2日目くらいに夫から電話がかかってきた。何かと思ったら「洗濯ってどうやるの?」と聞いてきたのだ。さすがに驚いたし、ちょっと甘やかしすぎて、家事のできない男にしてしまったなぁと反省した。
また、私が出張で家を空ける時、自分で使った食器くらいは洗おうとしてくれたのはよかったのだが、そのたびに器を割られた。大事なお茶碗を割られた時には「もう洗わなくていいから!」と声を荒げてしまった。
手術で2週間近く入院した時も、気になるのは夫のごはんや洗濯のこと。その当時、夫はゴミ捨ての曜日すらきちんと把握していなかった。
病院のベッドで「燃えるゴミは火曜と金曜だからね。8時半までに出してね。次の月曜日はペットボトルとダンボールの日だからね。忘れないように出してね」と、何度もゴミについてお願いしていたことを覚えている。
私はもしかしたら、死ぬ間際でも夫にゴミの話をするのだろうかと思い、ちょっと笑ってしまった。

夫はそれくらい家事に慣れていない人だった。
家事は結婚当初から99.9%私の役目。でも、私は家事が好きだったし、その頃の夫はいつも終電で帰宅するほど仕事が忙しかったので、家事をやらないことに特に不満はなかった。
むしろ、私は「夫に家事をさせること」がイヤだった。時代錯誤だと言われそうだが、「男が家事なんてせんでいい!その代わり外でしっかり良い仕事をしてほしい」と思うタイプだったからだ。キッチンの排水溝の生ごみなど、触らせるどころか見せることすら嫌で、いつも夫が見ていない時に生ごみを処理していたくらいだ。

ただ、「男は外で仕事、女は家を守るもの」と思っていたわけではなく、私もしっかり働いて、家計は折半していた。だから、友達に「家計を折半してるのに、家事はほぼ100%かおりちゃんって、おかしくない?」と言われても、「いいの、いいの。私が好きでやってるから」と答えていた。本当に、やらされているという感覚はなかった。
できれば専業主婦になりたいくらい、私は家事をしている時が楽しかったし、何の苦でもなかったからだ。あえて言うなら、私自身も仕事が忙しすぎて「家事を完璧にやりたいのにできないこと」にはストレスがたまっていた。それでも、代わりに夫に家事をしてもらおうという発想はなかった。

それが、だ。
私が寝込むようになった2年前くらいから、状況が変わった。今は夫が頑張って家事をしてくれないと、家の中のことがまわらないようになっている。
コロナ禍、そしてそれ以降も夫の会社はリモートワークのままで、出社するのが週に1、2回になったこと、オンラインでの打ち合わせが当たり前になり、東京出張がほとんどなくなったこともあり、いつの間にか夫は「家事をしない夫」から「家事をする夫」へと変貌を遂げていた。

今は、私が寝ている間にさっと起きて、家中のゴミをまとめて出してくれるし、リサイクルゴミの日もテキパキと動いてダンボールを紐で縛ったり、ペットボトルをまとめたりしてくれる。
まだレパートリーは少ないが、料理もしてくれるし、掃除も洗濯もしてくれる。食器洗いにしても、何度もやっているうちに慣れたのか、もう割ることもなくなった。

治療が始まってからは、ますます「夫の存在」が欠かせなくなってきた。コロナ禍以前のように夫が「日付が変わってから帰宅する」ような生活だったら、病院への送り迎えや家事など、一体どうしていたんだろうかと思う。
月の半分くらい東京出張をしていた時期もあったが、今もしそんなことになったら、不安でたまらない。病気は人を弱気にさせるし、現実的な話、一人ではできないことがたくさんあるのだ。

私はしんどい時はいつも1階リビングの横にある和室に布団を敷いて寝ている。朝、夫は2階へ上がる時、「何かあったらすぐ呼ぶんやで」と言ってくれる。ただ、朝から晩までほとんど誰かと打ち合わせか会議をしているので、よほどのことがないと呼びにくい。それに、「よほどのこと」があった時には、2階まで届くような声は出ないだろうと思う。

寝ている時、とんでもなくお腹が痛くなり、「薬を飲みたい」「湯たんぽがほしい」と思うことがある。でも、動けないほど痛い。布団の中で悶えて苦しみ、それでも薬を飲まなければと、なんとか薬を取り出して、水を持ってきて飲む。たったそれだけのことが死ぬ思いでやらなければならないこともある。
そんな時いつも思っていたのだ。
私付きの召使い(執事)がいたらいいのに、と。

子どもの頃に読んだ「ちびまる子ちゃん」で、まる子が微熱を出して学校を休むが、すぐに元気になり、布団の中でほくそえんでいる場面を思い出した。まる子はここぞとばかりに手を叩き、「おかあさんや、ちょっと来ておくれ」とお母さんを呼びつけ、いろいろ用事をいいつける。
あれだ。あれがやりたい。
一時は本気でうちのオカンに来てもらおうかと考えたこともあった。あの人は元気の塊だから、何でもしてくれるだろう。
「お母さん、薬~」
「お母さん、お水~」
「お母さん、湯たんぽ~」
そう言えば、「はいはい」と嫌な顔もせずにせっせと私の世話を焼いてくれるに違いない。
50歳を超えたいい大人が本気でそんなことを考えるほど、切羽詰まっていた。

治療が始まって、初めて高熱を出した日、私は痙攣に近いほど体をブルブル・ガクガクと震わせた。その瞬間は夫は2階にいたのだが、しばらくして下りて来た時に私が熱にうなされ、渡されたコップも持てないほどブルブル震えているのを見て、夫はかなり焦った。
「なんかあったら呼んで」とは言っていたが、こんなことがあったら「呼ぶ」どころじゃないということにようやく気づいてくれたようだった。

後日、「いいもの買ったよ」と何やら私に四角いものを手渡した。ボタンのようだ。
「押してみて」と言うので押してみたら、2階の夫の部屋から音が流れ始めた。呼び出しベルだった。
「なんかあったら、これ押すんやで。そしたら、すぐに飛んでくるから」
そう言って、にこにこ笑った。「もう安心やろ?」と。

それ以来、私はこのベルを使っている。押すと、どうしても抜けられない会議などの場合以外は、夫はすぐに飛んでくる。
仕事中なのはわかっているので、さすがに私も本当に困った時しか使わないが、これがあると安心だ。

初めて使ってみた時はちょっとワクワクした。
「どうした、どうした?」と夫が階段を駆け下りてきて、「お腹痛くて死にそう。お薬飲みたい」と言うと、すぐ薬と水を用意してくれた。
ありがたい。
「また何かあったら鳴らすんやで~」と言いながら階段を上がっていく夫に「ありがとう~」と感謝しつつ、私は心の中でこう思っていた。

セバスチャン……。
ついに、私のセバスチャンを手に入れた。

セバスチャンとは、「アルプスの少女ハイジ」に出てくるクララの家の召使いの名前だ。
現実には自分のまわりに召使いがいるような家はなかったし、「召使い」という存在を生まれて初めて知ったのが「セバスチャン」だったから、私の中で「召使い」=「セバスチャン」なのである。

でも、あんな人のいい夫でも、さすがに私がセバスチャン扱いをしていると知ったら怒るだろうなぁと思った。これは私の心の中だけのこと。そう思ったが、ある時どうしても我慢できず、ベルを鳴らしてきてくれた夫に「セバスチャン」と言ってしまったのだ。
「え?なに?セバスチャン?」
「ハイジに出てくるねん。クララの家の召使い」
「俺がかおりの召使いってこと?」
「いや……、召使いってことじゃないけど、呼んだら来てくれるから。ハクション大魔王とか、アラジンの魔法のランプとかと同じ」
どんな言い訳やと内心ツッコミながらもそう言うと、素直な夫はなんだか納得したようで、「ふうん。じゃあ、何かあったらセバスチャンを呼んでな」といつものように笑って2階へ戻っていった。

布団の中で手を合わせた。
神様!!
私みたいな人間に、あんな素晴らしい人を夫にしてくださって、本当に本当にありがとうございます!!
私にはもったいない人。
仕事が忙しくても、私の面倒をみて、セバスチャンにもなってくれる。
それでも嫌な顔ひとつしないのだ。
「病める時も健やかなる時も」
ふとこの言葉が頭に浮かぶ。
そうか、夫婦ってそういうことなんだ、と思う。

そして、感謝の気持ち以上に、やっぱりどこかで「申し訳ない」という気持ちの方が勝っている。
仕事の忙しい夫が最高のパフォーマンスを発揮できるよう、いつも清潔な居心地の良い家で、栄養バランスのとれたおいしい料理を毎日食べさせてあげること。それが私の「理想の妻」だった。
そういう「妻」でありたかったんだ、私は……。
何もできない自分が嫌で泣いてしまうこともある。
私は夫に何度も「ごめんね」と言う。これできなくてごめんね、これやらせちゃってごめんね……。
もちろん、「ありがとう」も言う。何度も何度も言う。
ぐったりと横になりながら、「いつの間にか、あなたのお荷物になっちゃったね。ごめんね」と言うと、夫は「お荷物じゃない。宝物やで」と言ってくれる。

もしも願いが叶うなら、前のように私が元気になって、彼には「家事をしない夫」に戻ってもらいたい。家のことなんて何も気にせず、ただ良い仕事をしてほしい。おいしいものをたくさん作って食べさせてあげたい。
でも今はまだ無理だから、それができるようになるまで、もうしばらく「家事をする夫」として頑張ってもらおう。
「病める時も健やかなる時も」、私たちは互いを尊重し、支え合っていく。

ちなみに、夫は自分でセバスチャンの自覚(?)が出てきたようで、自分のことを「セバスチャンがやっとくから」とか「セバスチャンの仕事やから」と言うようになった。
また、呼び出しベルのことを自分で「セバスチャンコール」と呼んでいる。

「何かあったら、セバスチャンコールしてな」
そう言って、今日もまた忙しくバタバタと2階へ駆けあがっていく足音を布団の中で聞きながら、幸せとせつなさが混じり合った気持ちで、私は目を閉じた。

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