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クソぺド野郎がようやく死んだ

(今回の記事はタイトルが酷いと思う人もいるかもしれないが、どうしてもこういう表現以外に思いつかなかった。ここで記述する「ペド」というのはペドファイル、小児性愛者のことを指す。文章が荒いが、もう校正する気力もないのでこのまま公開に踏み切ることにする)

■この文章を公開するにあたって

 実はこの文章を書き始めてから毎日何をしたか思い出せなくなっていて、最初に下書きを書いてから10日間くらいの記憶が飛んでいる。この件に具体的に触れたことでまた解離性健忘が再発したのだと思う。
 健忘が治まってきたころから久々に猛烈な抑うつ状態が1週間以上続き、無気力で、極端に落ち込みやすく悲観的で「自分には何の価値もない。生きる意味がない。消えたい」とまで思って泣き出すことが何度もあった。

 実家を出てからかなり時間が経ったのでこの話を書いても平気だと思っていたが、自分が思っているよりはるかに平気ではなかったことを思い知った。物心つく前から割と数年前までの問題だったので、過去のトラウマを思い出すことは自分が予想していた以上に過酷な作業だった。
 近々PTSD治療の専門医である主治医にケアしていただく予定だが、周りの人間に迷惑をかけてしまったことについては猛省し同じことを繰り返さないように強く自戒しなければならないと思っている。

■ジェニーの記憶を観て(※ネタバレ注意)

 Amazonプライムで「ジェニーの記憶」という大人から子供への性被害をテーマにした映画を観た。
 終盤のシーンで大人になった主人公が成功した加害者に会いに行き、加害者の妻もいる大勢の前で13歳の頃に何度も性行為を強要されていたことを暴露するシーンには本当に色々な意味で圧巻だった。俳優の女性の表情が凄かった。
 今まで作中で一度も見せなかった加害者への怒り、憎悪、嫌悪、悔しさ、侮蔑、裏切られた哀しみ、その他もろもろの負の感情が複雑に入り交じった表情。あの表情は本当に上手く性犯罪被害者の加害者に対する気持ちを表現していると思った。きっと経験していない人にはわからないであろう、とてつもない怒りと複雑な思い。名演技だと思った。

 そしてスカッとした
 性犯罪に遭ったほとんどの被害者は、加害者に面と向かって問い詰める勇気などないと思う。まず思い出したくないだろうし、見たくもないだろうし、顔を合わせる距離感であっても言う勇気などなかなかないと思う。

 私もそうだったからだ。

 加害者と同じ住居に30年以上住んで、頻繁にすれ違って顔を合わせていたにも関わらず結局何も問い詰めることができないうちに加害者は病気で死んでしまった。

(下記は従業員からのいじめに関する関連記事)

 私は何度も性被害にあっているがこれが一番最初の被害経験である。
私は複雑性PTSDによる解離性障害の診断を受けている。
PTSDは戦争や災害など要因が1つの場合だが複雑性はトラウマ要因が複数ある状態で、トラウマが多すぎて何から手をつければいいのかをまず整理する必要がある。
 私は長期間の虐待、度重なる性被害により解離性障害も発症しているので解離して記憶をなくすなどの様々なトラウマ反応が起きないようにするところから治療しなければならない。

■加害者が死亡した第一報を聞いたときの気持ち

 私が実家を出て数年後、家族から加害者が病気で急死したと聞かされた。しかしその時私は
「あの男の人生は幸せだったのだろうか」
と、むしろ同情してしまったのだった。それが洗脳や麻痺など、無意識に自分が傷つかないように守る脳の防衛機制の影響だと気づくのには4ヶ月以上かかった。

■4ヶ月後にやっと怒りが沸いてきた

 はっきりと怒りが沸いたのは4ヶ月後だった。
正直に言って、火葬される前に死体の顔を判別がつかなくなるほど刃物でズタズタに切り裂いて「ざまぁ見ろ!!」と足で踏みつけ、唾棄したい気持ちが込み上げてきた。
 それほど長期間怒りと悔しさを抑圧していた自分に気がついた。加害者が死んだ時は勤務中で、父親が気がついた時には意識を失っており、救急車を呼んだが既に心停止していたらしいが、生きながら地獄を見てきた私にはあまりにラクな死に方に見えた。「もっと苦しめばよかったのに」という感想しかない。

■姉妹で被害に遭っていた

 加害者は実家の会社の住み込みの複数の従業員達だった。

 そして私の姉も幼少期に被害に遭っていた。姉の場合は私よりも詳細に覚えていた。だから私に対し姉は「○○さん(加害者)は変態だから気をつけろ」といつも言っていて、彼女は家の中にいる時はかたくなにスカートを履かなかった。その理由は動きやすいからだと当時の姉は言っていた。だが私には「階段を上がる時に下から覗かれるから気をつけて」と何度も言っていたので、確実に従業員達にされたことが影響していたと今にして思う。

 数年前に聞いた姉の話では、今回話題にした主犯からスカートとパンツをおろされ、性的な加害行為をされたらしい(私も具体的には聞いていないし聞けるはずがない)。しかも主犯だけでなく、姉への犯行を知られないように見張り役の別の従業員(後述)までいたという話には犯罪者の余りの卑劣さに絶句した
 私は、1~3歳までは主犯が私を抱っこするさいにいつも執拗に股間を撫で回していた加害者に対する「気持ち悪い」「やめて欲しい」という当時の気持ちが今でも思い出せる。その後も複数の従業員からスカートめくり等のイジメに遭っていたので、それ以外にも何かしらの被害は確実に受けていると思うが、私は解離性障害の健忘でトラウマに関して忘れていることがたくさんあり、治療の途中なので詳細はまだ思い出せない。

 性被害以外に何が耐えがたかったかというと、私の幼少期のアルバムには私を抱っこしているか一緒に遊んでいる加害者が頻繁に写りこんでいることだ。加害者の従業員は私が生まれる前から住みこみで働いており、家族同然に扱われ、家族に信用されていた身近な存在だった。それだけに、私が嫌な思いをしても周りに信じてもらえないどころか加害者が擁護されるとわかっていたので誰にも言えなかった。

■心を殺さないと正気を保てなかった

 なぜ実家を出るまで平気だったんだろう?と考えた。周りから見れば余計にそう思うだろう。だが私は、加害者への嫌悪感はあるものの日常的に頻繁に顔を合わせざるを得なかったため、生きていくために感情を麻痺させてやり過ごさざるを得なかったからだと思う。
 でも祖母の介護が終わり家を出ることができるようになったら、急に加害者達と同じ屋根の下で30年以上も生活していたことが改めて異常だったことに気づき、恐怖を感じるようになって居ても立っても居られなくなった。今まで平気だったことが信じられないくらいに。
 拒否反応すら無意識に麻痺させていたのだ。抵抗したい、嫌だと思いたい自分の本心を押し殺さなければ平常心を保って生活することなどできなかった。

■「加害者が死んでも許せない」理由

 死んで欲しいくらい憎くても、実際死んだところで私は許せなかったし気分が晴れたわけでもなかった。
 なぜなら何も解決していないし、本人に反省の態度など微塵も見られなかったからである。
 本当に罪悪感があったなら被害者と顔を合わせることなど気まずくて仕事を辞めることはいつでもできたのに、結局死ぬまで実家の会社を辞めることはなかった。
 加害者にしてみれば、「いざ聞かれたらシラを切ればいい」「もし動かぬ証拠があったらその時に辞めよう。それまでやり過ごせばいい」というところだったのだろう。

■共犯者はまだ実家にいる

 姉が被害に遭った時の見張り役だった共犯の従業員はまだ父親の会社で働いている。共犯の加害者は私が成人して経営を手伝うようになると今度は証拠が残らないような陰湿な嫌がらせを何度もしてきた。つまりこの問題はつい最近まで私の身近にあったのだ。
 私が家を出るまで嫌がらせをしてきたということは、なおさら過去のことなど反省しているわけがない。彼らの他にも、実家に住み込みで働いて、私をいじめていた男性従業員達は、実家の会社を辞めた後も独立するなり転職するなりして、その後何食わぬ顔で結婚した。子供がいて家庭を持っている元従業員達も複数いる(住みこみの女性従業員もたくさんいたが、彼女たちが私をいじめることは全くなかった)。

 まだ生きている全ての加害者に対して私は「早く死んで欲しい」という願い以上に「死ぬまで一生苦しんで欲しい」という願いしかない。私が30年以上ずっと苦しんで、現在も日常生活に支障をきたしていて、精神科で治療を受けていて障害認定も受け、まともに働くこともできないでいるのに加害者が素知らぬ顔で生きているなんてどうしても納得がいかないからだ。

■SNSでの呟きは「内心の自由」ではない

 SNSとは、言わずもがな「ソーシャル・ネットワーキング・サービス」の略だ。つまりソーシャルな場所であってプライベートな場所ではない。

 最近も児童(少年)型ラブドールのレポを描いた漫画が炎上したが、彼らはなぜ糾弾されなければならないのか根本的な部分を全く理解していない
 数ある犯罪の中でも特に子供への犯罪は絶対に許してはならない。しかしSNSで鍵もかけずに平然と女性や児童への性的な加害欲求を公開している人間は、インターネット、それも不特定多数の人間の目に入るSNSで自分がどれだけ恐ろしい発言をしているか全く自覚していない。

 確かに思うだけなら「内心の自由」だ。その欲求自体は否定しない。

 しかし、理解のある身内以外も見ることができるSNSの公開アカウントで呟きや画像を公開している時点で、私的な場所からはみ出して社会に自分の欲求をぶちまけているのと全く同じだ。シェアやリツイートやいいねをすれば、全く関係のない人間が目にしてしまう可能性だってある。

 ではなぜ身内だけの限定公開にしないのか?と考えると、結局無意識に彼らは加害欲求を誰かに肯定され、認められ、「悪いことではない」と正当化したくて仕方がないからだと思う。
 自分の欲求が他人を不快にさせる自覚がもしあるならば、非公開アカウントで同好の士に語るだけで充分だろう。しかしそれをしない人間は、つまるところ本心ではその加害欲求が悪いことだとは微塵も思っておらず、あまつさえそれを他人に認められたくて仕方がないようにしか見えない。
 小児性愛は本当に反社会的な特殊性癖で、お互いに同意ができる成人のLGBTとは全く性質が異なる。SNSで公開すれば批判を受けて当然であることをそういう人達にはまず自覚して欲しい。なぜなら、それを公開することであらたな加害者を生み出しかねないし、かつて被害に遭った私のような人々のいまだ癒えない傷をえぐることになるからだ。

■小児性愛障害は治療が可能な「病気」である

 よくSNSで小児性愛者の界隈が声高に「LGBTの仲間に入れろ」と主張するが、同性愛は反社会的な特殊性癖ではないし、そもそもLGBTは病気ではない
 その証拠にWHOが正式に精神疾患から除外している。
 だが小児性愛障害には国際的な診断基準(DSM-5)があり、精神疾患として分類されている
 一緒くたにされるのは非常に迷惑な話だ。

 児童を性的な対象として扱い、加害欲求を抑えられない小児性愛者(ペドファイル)は性嗜好障害(パラフィリア)という精神疾患の一種として診断される。衝動を抑えることに苦痛を感じる場合は治療することもできる。
 遺伝的要因の場合もあるが、加害者自身が過去に凄惨なトラウマを抱えている場合もある。きちんと治療しなければ、たくさんの子供達にトラウマを再生産してしまう。

 身内のみの非公開アカウントではなく、不特定多数が閲覧できる場所に加害欲求を載せられる時点で、客観的に見たら正常な精神状態とは到底思えない。実在の児童に手を出す前に、児童型ラブドールで一時的に(もしくは一生)代替するよりも精神科で治療を受ける方が、長期的に見ればはるかに当事者の苦痛は和らぎ、根本的な解決になる。
 児童型ラブドールは一時的に欲求を抑えることはできるかもしれないが、むしろ実在児童に対する加害欲求を増幅させ、加害へのハードルを下げる危険性がある。実在児童への加害に興味がない人間も多数いるかもしれないが、「絶対に加害することはない」という保証を証明することなど誰にもできない

 あまり知られていないが、「児童への興味」そのものは消えなくても「児童への加害行動に移す欲求」自体は性的な衝動を抑える投薬や認知行動療法やカウンセリングなどで減少させることが充分可能である。医師によっては3年の治療で寛解するとまで言われている。
 児童性犯罪被害の当事者として、私は児童型ラブドールの販売規制(どうしても販売するなら購入者の個人情報を登録する等)と、一人でも多くの小児性愛障害者が治療に踏み切ることを強く願ってやまない

いただいたサポートは私の精神的な回復(PTSD治療費)に充てさせていただきます。