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1/15 ディボーション 幸いな人 ヨハネの福音書 5:1-18

聖書箇所 ヨハネの福音書 5:1-18

"その後、ユダヤ人の祭りがあって、イエスはエルサレムに上られた。
エルサレムには、羊の門の近くに、ヘブル語でベテスダと呼ばれる池があり、五つの回廊がついていた。
その中には、病人、目の見えない人、足の不自由な人、からだに麻痺のある人たちが大勢、横になっていた。
そこに、三十八年も病気にかかっている人がいた。
イエスは彼が横になっているのを見て、すでに長い間そうしていることを知ると、彼に言われた。「良くなりたいか。」
病人は答えた。「主よ。水がかき回されたとき、池の中に入れてくれる人がいません。行きかけると、ほかの人が先に下りて行きます。」
イエスは彼に言われた。「起きて床を取り上げ、歩きなさい。」
すると、すぐにその人は治って、床を取り上げて歩き出した。ところが、その日は安息日であった。
そこでユダヤ人たちは、その癒やされた人に、「今日は安息日だ。床を取り上げることは許されていない」と言った。
しかし、その人は彼らに答えた。「私を治してくださった方が、『床を取り上げて歩け』と私に言われたのです。」
彼らは尋ねた。「『取り上げて歩け』とあなたに言った人はだれなのか。」
しかし、癒やされた人は、それがだれであるかを知らなかった。群衆がそこにいる間に、イエスは立ち去られたからである。
後になって、イエスは宮の中で彼を見つけて言われた。「見なさい。あなたは良くなった。もう罪を犯してはなりません。そうでないと、もっと悪いことがあなたに起こるかもしれない。」
その人は行って、ユダヤ人たちに、自分を治してくれたのはイエスだと伝えた。
そのためユダヤ人たちは、イエスを迫害し始めた。イエスが、安息日にこのようなことをしておられたからである。
イエスは彼らに答えられた。「わたしの父は今に至るまで働いておられます。それでわたしも働いているのです。」
そのためユダヤ人たちは、ますますイエスを殺そうとするようになった。イエスが安息日を破っていただけでなく、神をご自分の父と呼び、ご自分を神と等しくされたからである。"
ヨハネの福音書 5章1~18節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

最初に示されたこと

神はお休みになられない。いつでも神に助けを求め癒されまた歩き出しなさい。

内容のまとめ

祭りの時期、ベテスダという池に行かれたイエス様は、38 年も病気にかかっている人に声をかけ、いやされました。しかし、ユダヤ人たちは安息日にこの奇跡を行ったという理由で、イエス様を迫害しました。

静聴と観察

<ベテスダの病人>3〜5節 神から離れている間の人間は病人と同じである
<御子の救い>6節 キリストは御自分から救いをもたらしに来られる
<人の救い>7節 人の救いはいつも頼りになるわけではない
<御子を受け入れた者の使命>8節 信仰を与えられたら信仰に導かれるままに歩きなさい
<御子の休息>9、17節 キリストはお休みになられない
<律法主義者の愚かさ>10、16、18節 律法主義者は形に囚われ本質を見ることができない
<救われた後の罪>14節 救われた後の罪を遠ざけるように祈り求めなければならない

適用

キリストは御自分から私の病んだ霊を癒しに来られた。その愛と恵みに感謝する気持ちを忘れずにいたい。人の助けはいつも頼りになるわけではなく、また主はお休みになられることはないので、何よりも主を第一に依り頼みたい。与えられた信仰により信仰に導かれるままに素直に歩んでいきたい。キリストによって救っていただいた人生から罪を遠ざけるように日々祈り悔い改める心を持ち続けたい。形に囚われ本質を見失う律法主義者にならないようにしたい。

祈り

主よ。御子イエス・キリストは御自分から私の病んだ霊を癒しにきてくださいました。その愛と恵みに感謝する気持ちを常に忘れることがありませんように。人の助けは常に頼れるわけではありません。どんな時もお休みになられないあなたを第一に依り頼むことができるものとしてください。与えてくださった信仰により導かれる道を素直に歩んで行けますように。そして、罪と悪を私から遠ざけてください。形に囚われ本質を見ることのできない律法主義者になることがありませんように。

アーメン

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