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私たちは喪失の過程を生きている

最近、江國香織さんの小説を読み漁っている。

あの世界観や空気感がとても好き。

江國さんの書く文章を一文字も逃したくなくて、
文字を摂取するように読んでいる。

江國さんの素敵な短編集を2冊読んだので紹介したい。

「号泣する準備はできていた」


この短編集は、読み終わってから日に日に私の心をじわじわと侵食した。

私がこの作品を好きになったのは江國さんのあとがきを読んでからだ。

たとえば悲しみを通過するとき、それがどんなにふいうちの悲しみであろうと、その人には、たぶん、号泣する準備ができていた。
喪失するためには所有が必要で、すくなくとも確かにここにあったと疑いもなく思える心持ちが必要です。 そして、それは確かにそこにあったのだと思う。 

「号泣する準備はできていた」あとがき

この短編集は、かつて失くしてしまったもの、あるいは失くすものを予期している女性達の物語だ。

それは愛情であったり、時間であったり、尊厳であったり、若さであったり。

それらを「所有」して、生活を積み重ねている時から「喪失」の準備が始まっている。

何気ない日常の瞬間から。幸せな瞬間から。
未来に来るであろう悲しみの準備が始まってしまうのだ。

そんな日常の1シーンを切り取った、
どこか哀しい、でも強さを保っている主人公たちの「号泣する準備」の物語が素晴らしかった。

「泣ける」とか「感動」とか「あったかい」とかそういったものではない。
私はまだ「共感」もできていない。

女性達のなんとも言語化できない感情をありありと見せられたような気がして、自分の感情の行き所がなくなってしまった。

そしてその“何とも言葉にし難いもの”を表現する江國さんの文章がみずみずしく素晴らしい。

「泳ぐのに、安全でも適切でもありません」


これまた、江國さんのあとがきが1番の名言。

瞬間の集積が時間であり、時間の集積が人生であるならば、私はやっぱり瞬間を信じたい。
SAFEでもSUITABLEでもない人生で、長期展望にどんな意味があるのでしょうか

「泳ぐのに、安全でも適切でもありません」あとがき

安全でも適切でもないとわかりながらも、
貪欲に飛び込み、
淡々と息をする主人公たちを見ていると、
自分の人生を肯定してあげたくなる。

不可解で、正しくもなく、他の誰にも理解できない、
自分だけの人生を生きていることを。

短編集の中の「うしなう」という作品に印象的な言葉がある。

結局のところ、私たちはみんな喪失の過程を生きているのだ。貪欲に得ては、次々にうしなう。

「うしなう」

そうか。私たちはやっぱり喪失の過程を生きていた。

でも、そんなことは当たり前だったのだ。
だって人は死に向かって生きているのだから。

だから、だからこそ、
一瞬一瞬が尊く、
この刹那をきらきらと生きたいと思う。

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