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ル・スーヴニール


「このあたりの紅葉が見ごろを迎えるのは、もう少し先ですね」
 そう女将が言っていた。それでも、コナラやクヌギの葉は秋色に染まり、僅かな風が吹いただけで、梢から手を離してしまいそうに見えた。

「少し前の私みたい」

 彼はとうとう最後まで、ついて来いとも、待っていてほしいとも言わずじまい。昔からはっきりと自分の気持ちを言うタイプではなかったが、彼の本心は理解しているつもりだった。でも、それは私の自惚が生んだ勘違いだったのかもしれない。信じて待つと言えば聞こえはいいけど、彼からの連絡が少なくなっていくにつれ、信じることがどれほど大変なことなのか思い知った。でも、それも今日で終わる。

 身仕舞いを整えて振り返ると、樹葉の間を擦り抜けた朝日が畳の上に蜂蜜色の影を踊らせていた。

 待ち合わせの時刻まではまだ少し間がある。宿を出た私は国道49号線をゆっくり南下することにした。銀と金という名の付いた橋を越え、緩いカーブをいくつか曲がった。やがて、木々の間から鏡のような湖面が見えてくる。湖畔沿いの道は高い建物がないので、片側一車線でも周りの景色を見渡せる。今は刈り取られた田んぼが広がっているが、田植えの候は、あたり一面が陽の光りに輝くことだろう。

 しばらく走ると、遠く会津富士の頭に笠雲が覆い被さろうとしている。ウィンドウを下ろすと、滑り込んだ風は雨の匂いがした。
 程なくして空が墨を流したように暗くなったかと思うと、たちまち大粒の雨がフロントガラスにぶつかってくる。それはバチバチと大きな音を立てて弾け、行先を見る間に白く煙らせてしまった。ワイパーは懸命に雨を拭き取ろうとしているが、拭くそばから滲んでしまう。おかげで、前の車が全く見えなかった。今や、すれ違うどのクルマもライトを点けて、盛大な水しぶきを上げて通り過ぎて行った。


 そのカフェは道から少し脇に入った場所にあった。遠慮がちに書かれた「ル・スーヴニール」の看板が唯一の目印だ。ところが、その看板はまるで俯いたように傾いていたので、土地の人でさえ見逃してしまうほど分かりづらかった。
 私は左のウィンカーをつけて、慎重にクルマを側道へ入れた。

 店の前にはバラ砂利敷きの駐車場があって、地面にあたる雨音を優しく受け止めていた。その一方で、あちこちにできた水溜まりでは、弾んだ雨粒が賑やかな飛沫をあげている。幸いなことに、どの駐車場スペースも空いていた。私は入り口の直ぐ隣にある場所を選んで車を停めた。この距離なら傘をささなくても、それほど濡れずに済むだろうか。

 バッグを頭の上にかざして車を降りた私は、細い踵が砂利に捕られないよう注意して入り口へと急ぐ。滴をハンカチで払いながら木の階段をあがると、クルマの音に気がついたのか、店のマスターがドアを開けて待っていてくれた。

「大丈夫でしたか?」

マスターが、私に生成り色のタオルを差しだす。
「すみません。平気だと思ったのですが、少し甘かったです」

 受け取ったタオルで濡れた髪を拭うと、心なしかアスターの香りがした。

 まるでそれは教室の南側の席を思い起こさせた。お店の殆どが廃校になった校舎の廃材が使われているからだろう。使い込まれた北欧家具と良く馴染んで懐かしい空気感だ。マイクロのプレーヤーからはシューベルトの「アルペジョーネ・ソナタ」が流れていた。

「一年ぶりですね」
私の返したタオルを受け取ったマスターは、メガネのブリッジを中指であげながらそう言った。
「私のことを覚えていて下さったのですか?」
 以前この店を訪ねたのは、今からちょうど一年前の今日だった。驚いている私に、マスターはゆっくり頷いて続けた。
「今日はごらんの通りです。よろしければいつもの席にご案内いたしましょうか?」
「ありがとうございます。ぜひお願いします」

 そこは湖を見渡せるように開いた窓際で、晴れた日は湖面が良く見渡せるこの店で一番の席だった。テーブルの隅に置かれたメニューは、一見するとフォトブックのように見える。表紙にはこの窓から湖を撮った写真が使われていた。それは緑色の畑とその先一面にに咲いた真っ白な花が揺れる幻想的な風景だ。初めてここへ来た時、何の花なのかを訊ねると、マスターは蕎麦だと教えてくれた。

「お決まりですか?」
「秋色のブレンドとガトーショコラを」
「かしこまりました」

 それは昨年だけではなく、2年前も私が注文したものだった。口にこそ出さなかったが、マスターはそのこともちゃんと覚えている気がした。

 そう、わたしは毎年この場所へ来ている。この席で彼を待ち、そして彼が現れないことを知っている。それなのに……。

「お待たせしました。秋色のブレンド珈琲と胡桃入りのガトーショコラです」

 青い小花が散ったケーキ皿に載ったガトーショコラ。ひと口食べれば、カカオの風味が口いっぱいに広がるクラシックケーキの逸品だ。ボダムのフレンチプレスから注がれる香り高い珈琲も変わっていない。私は会釈をして踵を返そうとしたマスターを呼びとめた。

「あの、もしできましたら、グノーのアヴェ・マリアを掛けて頂けますか?」

「かしこまりました」と笑顔で頷いたマスターは、銀色のトレーを脇に抱えて戻って行った。しばらくして曲が変わった。

 彼は、帰ってきたらここで会おうと言った。そして、チェロを勉強する為にフランスへ旅立った。

 ここで会う約束だった……。
 本当に約束だったの? 
 そのはずよ。
 約束だと思いたかっただけじゃない? 
 違うわ。
 そうかしら?
 わからない……。
 何がわからないの?
 何もかもわからないわ。

 せめて待つ方法を教えてほしい。それがいつまでと期限を切られているのなら、その日を頼りに指折り数えればいい。だけど、いつとわからなけば、何を信じて時をやり過ごせばいいの?

 どうして私はココにいるの? 
 会いたいから。
 でも彼は来ないわよ。
 来ないの?
 そう来ないわ。
 じゃあ、終わりにしたい。
 何を終わりにしたいの? 
 何を……。

 去って行ったひとへの思いは、日を追うごとに強くなるの? それとも、繰り返す日々の中で薄くなり、いずれどうでも良くなってしまうものなのだろうか。
 私は彼のことを待っている。そして、待つこと自体が目的になってしまったのかもしれない。だから、今日彼が現れなくても、きっと来年もココへ来るだろう。

 強くなった雨が、しきりに窓を叩く音が聞こえてくる。窓の向こうにあるはずの湖は見えなかった。後から後から窓ガラスを伝い流れてゆく雨の滴たち。
 私はそれを指でなぞる。子供の頃は雨が好きだった気がする。鮮やかな黄色い傘とレインコート。そしてお揃いの長靴。それが嬉しくて、早く雨が降るようにとお祈りしたわ。

 でも、今は雨が大嫌い。

 カチリと音を立てて、壁かけ時計が15:00を差す。
 続いて、ボン、ボン、ボーンと時報を打つ音が三度鳴った。

「今年も、ダメだったみたい」
 湯気の消えた珈琲カップに向かって呟いた私は、静かに席を立った。

「お帰りですか?」
「ご馳走様でした」
「又のご来店をお待ちしております」

 下を向いたら溢れた涙がこぼれ落ちてしまいそうだった。
「来年も……お邪魔してよろしいですか?」
「同じ席をご用意いたしますので、是非、お越しください。」

 お礼を伝えた私がドアを開けるのと殆ど同時に、地元のご婦人たちが店に入ってきた。

「ほんと酷い雨ね!」
「ちょっと、降るなんて聞いてた?」
「洗濯物を干しっぱなしにしてきちゃったわよ」

 階段の下で振り返った私から、ドアを開けたまま会釈するマスターの姿が見えた。

 にわかに慌ただしくなったことに気がついたパティシエは、焼きあがったケーキを置くと、マスターに声を掛けた。

「ホール、手伝いましょうか?」
「まだ大丈夫だよ。僕だけでさばけるから」
「了解です。でも、いつでも呼んでくださいね」
「ありがとう」
「あら? そちら、お客さまがいらしてたんですか?」
 窓際のテーブルに手つかずのケーキと珈琲を認めた彼女が訊ねた。

「ついさっきまでね」
 トレーの上にポットとカップ、それにケーキ皿を片付けながらマスターは答えた。

「奥にいたから全然気が付きませんでした」
 首を傾げた彼女は、そう言うと厨房へ戻って行った。

「えっと、私はモンブランとダージリン。あなたは何にする?」
「わたしは、タルト・タタンにしようかしら」
「雨の日はロイヤルミルクティよね」
 その時、メニューを眺めていたもう一人のご婦人が口を開いた。

「そう言えば、2年前だっけ? この先で事故があったのを覚えてる?」」
「あー、あったあった。こんな雨の日だったわよね」
「通りかかったら、救急車とレスキューだっけ? いっぱい来てたのよ」
「何が原因だったの?」
「それがさ、スピード出した車がスリップして……」
「やだ、あんなひどい雨の中を?」
「そうなのよ。それで、反対車線に飛び出して対向車に正面衝突!」
「まあ、怖いわぁ」
「かわいそうに、ぶつけられた車を運転していた若い女性は即死よ」

「お決まりでしょうか?」
 どこまでもかまびすしいご婦人たちだった。マスターはそれとなく会話を遮るように声を掛けた。
「えっと、シフォンケーキと、こちらの葡萄と苺のコンフィチュール入りチョコレートケーキ。あとは……」 

 注文を取ったマスターは、厨房にいるパティシエに声を掛けた。
「シフォンケーキは焼きあがった?」
「はーい、今日もしっとりフワフワのモチモチですよ」

 頷いたマスターはドアを開けて階段を下りた。そして、入り口から一番近い駐車スペースに立てかけていた【ご予約専用】という立て札を外した。
 
「来年のお越しを心よりお待ちしております」
 誰にともなく、そう呟いたマスターは立て札を持って階段を上がって行った。

 外の雨はだいぶおさまっていたが、朝からずっと空いていたそのスペースには大きな水たまりができていた。


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