おいしい話には裏がある!

 私にとって「おいしい」ものは日々生きる上での大きな原動力となっている。
 ひなちゃんにも「楽しい」や「嬉しい」に加え、たくさんの「おいしい」を体験してもらいたいと考えている。あくまでも私の自己満足であるのだが。
 おかゆの上澄み液から始まったひなちゃんの離乳食もすでに完了期に差し掛かりつつある。
 今ではバナナをがぶりとかじることもできるし、ハサミで細かく刻めば水炊きやおすいものに入った野菜など、薄味のものに限り大人と同じ料理を食べることもできる。
 ありがたいことに、ひなちゃんも私や夫と同じで、食べることがとても大好きなようだ。
 お腹が空けばハイローチェアの座面をバンバンと叩き、ご飯の要求をするようになった。ひなちゃんの好きなサケのグラタンやバナナヨーグルトが出れば、スプーンやお皿目掛け、顔で突っ込んでくるような勢いで食べてくれる。逆に嫌いな酸っぱいものや、食べ飽きたらしい、焼き芋が出ると、つまんで投げたり、お皿やスプーンを手で弾き飛ばしたりもする。
 とてもわかりやすい反応でありがたいのだが、苦労して作った料理を床にぶちまけられた時にはやり場のない怒りにさいなまれる。料理にかかった時間と食べ物で汚れたハイローチェアを掃除する手間を考えるとこちらが逃走したくなる。
「こんな横暴いや、パワハラ?が許されるのは赤ちゃんの時だけなんだぞ」
と声を大にして言いたくなる。というか割とよく言っている。
同時に、自分にもこんな大変な瞬間があったのかと思うと私の心身に加え味覚を育ててくれた家族にも、よりいっそう感謝の念が湧いてくる。母も祖母も料理が好きで、一緒にお菓子を作ってくれたり、誕生日には私の好きなポテトサラダやハンバーグを作ってくれたりした。
 私も両親や祖父母のように自分や夫が食べるものに加えひなちゃんの離乳食を作るようになって、ご飯作りの大変さを改めて実感した。料理名でレシピを検索し、スーパーで必要なものを買い、調理をする。おいしいものを食べるのは一瞬でも、その段階に至るまでには何10分いや、ものによっては何時間もかかるのだ。ある意味「おいしい話には裏がある」といえる。おいしい話になるまでには、もっといえば食材を育てたり作ったりする過程から調理をする段階に至るまでたくさんの人の努力、要するに数えきれないほどの裏があるのだ。それらの過程を経て一つのおいしいものをパクっと食べられる自分はやはり幸せなのだと思う。
 私の記憶の中にも多くのおいしいと思えた瞬間が残っている。
 お爺ちゃんの田んぼでとれた新米で作ってもらったおにぎりは、ノリや塩など何も付けなくてもとてもおいしく、お米の甘さが口いっぱいに広がった。地元で梨狩りに行き、梨の木の下で母や祖母と食べた取れたての実はびっくりするほどみずみずしかった。父と夜にこっそり食べた背徳感満載のコンビニプリンは、いつも以上に甘かった。オーストラリアで現地の人がジャングルから取ってきて分けてくれたライムは、一瞬で目が覚めるほどの酸っぱさで、果汁はジンというお酒との相性が抜群だった。
 この世界にはたくさんのおいしいものがある。せっかくこうして生まれてきてくれたのだからひなちゃんにも「おいしいね」と言いあえる仲間と、たくさんのおいしいものを見つけていってほしいというのが私の切なる願いである。
 そしてひなちゃんがそのおいしい話の裏に気づいた時、そのおいしさはよりいっそう深みを増していくはずだ。

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