純邦楽⑱

昨日はすみませんでした。何か書いているとどんどん話がずれていってしまうんですよね。行き当たりばったり、というか反射神経で書いているから。

昨日の記事、もう一度読み返しました(汗)

なぜ「純邦楽」は「西洋音楽」を学ぶ必要があるか、ということを書いていたのに、そこからずれて変な方向に進んだんですよね。

その理由について今日は書いていきたいと思います。

やはり「西洋音楽」って便利なツールなんですよ。体系化されているし、言語化されているが故に、作品の分析には極めて有用です。だから自らの音楽を知る上ではあった方がいい、というよりないと無理かもしれない。

別に「西洋音楽」をやれ、という話でも無ければ「西洋音楽」を取り入れろ、ということではありません。

もちろんいいと感じられたところは取り入れても構いませんが。この国に限らず、文化というものは一般的に他の文化から影響されて成り立っていることの方が大半な訳で(というより少なくとも今ある文化で他の文化から影響されていないものは一つもないでしょう)、気にすべきことではありません。

で、西洋音楽のツールとしての有効性は極めて高い、というより現存している音楽を言語化・体系化するためのツールとして、他に並ぶものがありません。

で、それがないと自分が何者であるのかは分かりません。そういったものは他者との関係性で決まってくるものですが、そういったツールがないと他者との相対的な関係性を把握することは難しい。

残念なことと捉える方もいらっしゃるかもしれませんが、所詮はツールです。

使えるものはどんどん使えばいいんですよ。

それで「純邦楽」が変わるかもしれないけれど、それも決して悪いことではありませんから。

明日はそろそろ純邦楽の今後について考えていきたいと思います。

ほぼ書きたいことを書いていて、読んでいただけることも期待していませんが、もし波長が合えばサポートいただけると嬉しいです!。