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#141 中村俊輔と僕らの世代



三浦和良、小野伸二、遠藤保仁、そして中村俊輔……この4人に共通して、私の感覚として勝手に思っている事がある。
日本サッカーという世界の中で、そしてJリーグという世界の中で、この4人は永遠だと思い続けていた。というか正直、今もまだ思っている。このNoteを公開する頃には、それが永遠ではない事を「正式発表」という形で知ることになるのだろうけれど、それを聞いた後もまだ暫くは信じているのかもしれない。まだその概念は永遠だと思い続けている。


言うまでもなく、私はガンバ大阪と京都サンガFCのファンである。
これまでも、ガンバやサンガの時代を彩った名手の多くが、それぞれのタイミングで引退という道を選んできた。その度に寂しさや喪失感を覚えてきた。小学校の時からSBだった自分が、常に「好きな選手は?」みたいな問いに挙げていた加地亮が引退した時はちょっと泣いた。その寂しさと名残惜しさは、これまで引退した選手や、これから引退していく選手で優劣をつけようなんて思わない。

ただ……正直なところ、喪失感という観点で言えば、今までで一番感じているような気もする。私はマリノスのファンでもなければ、磐田や横浜FCのファンでもない。にも関わらず、である。

最初はメインブログの方で書こうかと思ったが、思っていた以上に感情が読み物としてまとまらない。なのでNoteで書き殴っていこうと思う。


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中村俊輔が海外に行ったのは私が5歳の時だったから、友人を含めてJリーガーとしての中村俊輔を知らずに過ごしていた中学1年生の時、中村俊輔が日本に帰ってきた。
今でも西京極での光景をよく覚えている。当時は今のような高性能カメラを有するスマホはなく、iPhoneが浸透し始めたくらいで、ガラケー派の方がまだギリ多かったように記憶している。中村俊輔がコーナーキックを蹴る時、多くの人間が遠隔で撮影できないガラケー握り締めてコーナー付近に走っていった。セットプレー一つにこれほどの訴求力を持つ選手を、私はまだ他に知らない。
私達の世代にとって、中村俊輔は特別を超え、おそらくこれからもオンリーワンの存在として君臨し続けると思う。


まるで同世代みたいな言い方をしたが、そうではない。
私は1997年生まれの25歳で、8歳となる小学校2年生の時からサッカーに触れ始めた。
友人との戯れでサッカーの楽しさに触れ、流れで観に行ったサンガの試合であの空間の昂りを覚え、テレビで見た日本代表戦で大人がはしゃぐほどの興奮を知り、初めて観たガンバの試合でこのスポーツに魅せられた。これが2005年の事である。

最初に憧れたのは宮本恒靖と大黒将志だった。
初めて見た日本代表戦で主役だった2人には「ガンバ大阪所属」という共通項があった。そのフレーズを覚えていたから、J1が再開した時に9試合ある中からガンバ大阪の試合を観る事を選んだ。京都に住んでサッカーを覚えた以上、サンガは遅かれ早かれ好きになっていただろうが、この2人がいなければ多分ガンバファンにはなっていなかったと思う。8歳の自分に、最初にストレートな憧れを抱かせたのはこの2人だった。


一方で、広義的に言えば憧れと同じなのだが、ストレートな憧れとはまた少し異なる感覚を抱かせてくれた選手がいた。というか、私と同世代の人間で、私と同じ頃にサッカーを見始めた人間にとっては、今で言う"推し"の選手はそれぞれにいても、この感覚は共通して持っていると思う。なんせ、最初に見た日本代表の10番であり、その輝きはとても言葉では表現しきれないほどの眩さを持っていた。
ファーストインパクトは、一生に大きな影響を及ぼす。サッカー界で世界一のスーパースターを挙げるなら世界にはもっと色んな選手がいる。ただそれでも、小2の自分が抱いたあの時の感覚は今でも残っているし、今でも自分の中で「スーパースター」と言えば彼が一番しっくりくるような気がするのだ。



自分のサッカー人生の中で、最初に出会ったスーパースター……それこそが中村俊輔だった。
小学校のサッカークラブに入っていたあの頃、誰もが中村俊輔に対して畏敬の念に近い感覚を覚えていた。
青のユニフォームを身に纏い、ボールをセットしたところから1歩、2歩と下がっていく刹那の時が止まるような感覚、登校前に早朝のめざましテレビで見たマンチェスター・ユナイテッド戦の衝撃……その左脚の全てに新しい世界を見た気がしていた。
私も含めてだが、この世代の多くはいわゆる「本当にすごかった中田英寿」をリアルタイムで見ていない。それだけに、だからこそ中村俊輔をフラッグシップ的に思っていたし、その背中の10番と25番に人生で初めてロマンという感覚を覚えていた。例えば、私と同じ1997年生まれのサッカー選手である初瀬亮(ヴィッセル神戸)は、両利きである事、両方の脚でセットプレーを蹴れる事を自身のストロングポイントとしているが、両利きは天性のモノという訳ではなく、元々完全なる右利きだったにも関わらず、中村俊輔に憧れて左脚の練習ばかりしていた結果そうなったという。中村俊輔という存在は、当時の少年をそういう衝動に駆らせる事も自然な流れに映るほどに眩い存在だった。
今も昔も、素晴らしい10番を何人も見てきた。ただ、自分の中で10番と聞いて真っ先に浮かぶのはやっぱり中村俊輔なのだ。中村俊輔をリアルタイムで観ただけでなく、自分に"スーパースター"という概念を見せてくれたのが中村俊輔だった事を、きっと私はこのスポーツに触れ続ける限り幸運だと思って生きていくのだろう。
以前、中村俊輔がガンバと対戦した時、アディショナルタイムのラストワンプレーで同点フリーキックを叩き込んだ事があった。私はその試合を観に行っていなかったが、現地にいた友人は「腹立つけどええもんみたわ」と言った。そう言わしてるだけの選手なんて歴史という括りで見てもそう多くはいない。そんな選手に出会える幸運を、サッカーファンは常日頃忘れてはいけない。


今、この国のサッカー界のメインストリームは私と同世代の選手達が占めるようになった。中村俊輔はまだもう少し先だろうが、昨年までガンバ大阪の監督を務めていた宮本恒靖のように、いわゆるシドニー五輪世代の選手達がJリーグで監督を務める事も多くなった。
中村俊輔が最も信頼していた選手の一人であり、親友と呼べる間柄でもあった遠藤保仁が、どこかの番組で語っていた言葉が今になって身に沁みる。

「20年後に日本代表になるのは、今の日本代表を見ている子供達。だからこそ憧れでなければならない」

15〜20年前、中村俊輔に憧れ、中村俊輔の助走に息を飲み、その背番号10に何よりもときめいた世代が今、ワールドカップの扉を開こうとしている。

中村俊輔選手、本当にお疲れ様でした。
サッカーを見始めたあの頃、中村俊輔という夢に魅せられた幸運は私の中で永遠であり、これからどんなスターが現れても、やっぱり私の中での"背番号10"は貴方です。


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