虐待の家から本当に救われるために
児童虐待から本当に保護されるとは、救われるとはなんだろう❓世間の大人がいう
保護には虐待された子、いつもその子が大人になることは想像がされない。
私は支援をしてくれてる支援者に目黒の虐待の事件が大きくなったようだと言われる。あの虐待の事件はマスコミも報道し社会に広く児童虐待を周知させた。それはいいのだが、間違った方向への理解が広まっていないだろうかと、悲しくなる。
DVの怖さ。女性相談の体制の脆弱性。そして保護された後の体制には回復などには目が向けられず、騒音にしか聞こえないマスコミから流れる児童虐待のニュース。
ユアちゃんが保護されても、苦しい人生を送っただろうと。今のこの社会の保護された後のケアーも自立のための支えがない状態を思うと悲しくなった。虐待で保護されることは、その後の大人になった後の助けを求めやすく大切だ。でも虐待から保護されても、素直に、支援者から傷つきを繰り返すこともそして、自立が楽になるわけでもない。
このニュースを見たときに、
保護された後の、虐待の傷やトラウマを背負い生きていくことの苦しみを思うと、生き延びても苦しいよと今までの自分を重ねて涙が流れた。
一人で生きる。親の支えもなく生きていく人生が、半分以上何十年も待ってる社会があるのだ。普通の子のように家庭のように大学行くことは容易ではない、心の状態も、きっとふとしたときに大人になってからも苦しむだろう。
そして、児童養護施設からの自立後のアフターケアがあても、この社会で親の後ろ盾もなく一人で生きてくしかない。保護されて楽にはならないんだよって35歳でも今も苦しんだよ。とこの整っていない児童福祉の世界と自己責任の世界に。保護されたらと声のする世界に
声を上げて叫びたい。気持ちでいっぱいになった。保護も大切。でもでも。それだけではないんだよ。問題は
保護された後が問題なんだ
。保護することばかりの社会の集まる焦点が着目点が怖い。違う。保護も大切だでも。違う。子供がみんな幸せになるために、本当に虐待の傷を回復しその虐待から逃げることは場所の問題ではないと社会に訴えたくなった。
虐待は家から保護したら命は守られる。
けれども心の命は
その環境から離れた時から、安心できるはずの人や環境にも影響が出てしまう。そこは守られない。
虐待から逃げてきた人生35年私はトラウマ治療で回復してきている。今年、トラウマインフォームドケアの概念を守った支援者が、私たちを喧嘩もするけど確実に生きる世界が優しいものだと支えられながら教えてくれてる。
私は今の支援者のことを話すと、よく羨ましいと言われる
けれども、35年は理解のない支援者や人の生きる世界では戦場だった。支援者と揉めまくり、傷つきを繰り返し、諦めないで一人で生き延びてきた。
中学の時はほぼ学業は授業に出れなかったのでできなかったし、ただ家庭の状態が悲惨なもので毎日が親から逃げて守って生きてきた。友達と遊ぶこともなかった。明らかに同級生とは違う世界にいた。いつも生きることが目的だった。
あの家から本当に逃げれたのは19歳の時。
10代のうちのほとんどが家から逃げるために全てを捧げたと言ってもいい。皆が青春をしてる時、子供時代を過ごしてる時、私は自分を傷つけながらも、何十回と助けを求めた。けれども、その繰り返しの叫びも親に潰されていく。高校も行かしてもらえなかった。悔しくて、15歳で大検を合格させた。高校の卒業の資格、大学へ行けるチケットを15で取得を独学でする。けれども、小学生から友達と遊ぶことを禁止されていたため、同級生との交流がほぼなかった。
人間関係を学ばず。親からの愛情も。人のことがこの世界が暗闇にしかわからない。宇宙の真ん中の渦にいつも生きてる。死んでる。わからない。世界には存在してないで、生きてきた。
DVもあった。兄弟差別も半端ない。
いつも家にいた18年間は虐待の上に死なないで生き延びてきた。
そして、その後19歳で保護されたが、それからがこの社会で人間関係のスキルも虐待のトラウマも抱える中、大検とった中卒の私がたった一人でいきていくことになるが、19歳から20歳の自立援助ホームの時も、その後の自立後の、15年間もさらに生き延びるために戦って虐待の家で自分を守って生きてきたよりも自分を守るために戦いを休まないで生きてきた。
一言で言って、児童虐待で保護されても、家からの戦いは終わらなかった。救われなかった。
支援者の傷つきを繰り返した30歳過ぎてから孤立も深まり、トラウマ反応も酷くなり
施設からの自立後、一切、安心安全もなかった。そして、大人の掛け違えた自立の概念に自分は犠牲になった。一人でひたすら生きる。
一番は心を元気にして私を私たちで生きられる場所を探してた。それは児童施設では用意がされていなかった。どこにもすることが甘えだと言われてるようで、、苦しいをいうことが許されなかった。
何よりも怖かったことは
ケアーもなく社会に一人で就労する自立で放り出された怖かった。振り返ると思う。
現在複雑性PTSDと、解離性同一障害を抱えて生きている。私は自分の中に何人もいるだが、
主人格はもう8歳くらいで寝ている。
35年にしてトラウマ治療の中で
主人格が息を取り戻し、目を覚めて出てきた。
それくらい恐怖の世界が怖い傷つきの人間関係が繰り返していた。自立後は、特に支援者からの傷で人格が荒れていく。
虐待で保護されても、トラウマの知識がほぼ児童施設も病院も市役所もどこもない。当然、働く職場も。二十四時間の過去のフラッシュバックと隣に隣の今の支援者との、摩擦と、自分の批判で自分はこの社会で感情を停止させ生き延びた。
職を失いホームレスになっても
助けてくれるものはなかった。
一人でどうにか生き延びて
ようやくけれども、26歳超えて生保になり、心の一般の病院に行くあたりから余計に迷いました。その頃から、いや社会で施設から自立した20歳ごろから
いや施設にいた時から、虐待のトラウマ反応に苦しんでいた。でもひどくても、逃げれない、働き一人で生きていく自立のみしか用意がされていなかった。
26でも治療に繋がっても
彷徨い自責の念に耐えず溺れ、見失った。パーソナリティ障害と言われ私の中の人たちがすべてを生きてることを認められない苦しみ。
病院の障害福祉の支援者からの言葉接触指導の仕方、治療内容全てが、私たちを否定するものと押し付けにしか聞こえなかった。理解は一切なかったと思う。
26歳から30歳、専門家と支援者の強さに怖くて従った。
けれども、支援者に順応して気持ちを押し込めて、過ぎていた26歳からの精神科の治療と、市役所からの支援は、まるで、家での虐待を思い出してしまった。
恐怖に溺れるしかない。治療をしてるのに追い込まれる。
まるで自分の上に、医者の見解ばかりを支援者の見解だけを塗りつぶされる。そこには、責められる私は存在しても、本当の私は存在しなかった。みんな息を潜めて、順応のために隠れていた。
それに耐えることができなくなり
椅子を投げたら精神科病院は出禁に。
気持ち的に、出禁はうれしかった。19歳の家から逃げた安心感があった。不思議だった。
そんなこんなで、、35でトラウマ治療の専門の医者に診てもらうようになって、虐待の傷の初めての心の回復と、他人の存在の線が見えて、他人が人に見えて、そこには気持ちが存在していることを知る。目の前に広がる、、恐怖の世界が柔らかい優しい世界に初めて見えるようになる。自分を守る全ての力が、たまに人に優しくなる色に変化し出す。
ようやくあの家から逃げて生きてる自分の中のみんなと手を繋いで人として生きていける世界に足を一歩
踏み出せた。そして、虐待されたと35で自分は悪くなかったと苦しいのは弱いからではないと
子供の時の植えつけてきた大人たちの言葉の数々の自分を縛り付けるものが少しずつ解れていった。
児童虐待から本当に保護すること救われることはこういう
回復が土台に社会の理解のされる人、仲間がいて、傷つけないトラウマインフォームドケアがある支援関係につながり、初めて一歩踏み出せたと言えるのではないだろうか。
そしてここからは自分の願いになりますが、
今の虐待受け子供が幸せに大人に社会で生きるためにどうしたらいいのだろうか❓そして児童虐待防止法が整っていなく保護されなかった大人の仲間たち。
そして施設保護されたけど、施設からの自立の形が進学がなかった世代は、、アフターケアーのなかった一人で生きて心が病で孤立してる30歳上の大人たち。
今施設を出て生きてる10代20代の若者。
全てが、自己責任でなく、優しい世界になり、支えられてその人に望む、生き方ができる世界になってほしい。幸せになる権利はある。でもそう思えない世界が存在している。
どんな環境生まれていたとしても。家庭の後ろ盾がなくても、病気になって働けなくても、どんな人も、つまずいても。できなくなったも、死にたい思っても、苦しいかもしれないけど、あなたは生きてていい存在だ。と支える何か安心が社会にあってほしい。
一人で生きれるほどの人はいない。
強くなる必要はない。本当は自分を責めないでと支えて隣で寄り添う支援があればと思う。
でも就職のしろ、進学にしろ、すべてに条件や、お金が必要になり
万全でないとセカンドチャンスすることは取り組めない道を歩めない世界に見える。
今あなたが悪いと言われてるように視線が怖くなることもある。
だから社会は許されていない錯覚に陥ることばかりだ。でも、
虐待の家で生きることが苦しくそこにいま生きてる存在が尊いものだから。生き延びて必死に今生きてる人を孤立させないで共に助け合って生きていける優しい社会があってほしい。
そう思える世界が、支援体制ができて欲しい。親の後ろ盾がなくても進学ができたり家庭がないことがつまずく原因にならない社会になってほしい。虐待の傷を背負って生きていくだけで本当はすごく大変なことだから。
環境や経済的に生きる苦しみがさらにのしかかる負のループが途絶えて、雨がふて草木を濡らして、土が水を吸って、川になって、旅をして、大河に出て、海に流れるように優しく自分で人と生きることが苦しくない世界になりますように。
そして、
最後に、目黒と野田の事件で救えたのにうまくDVの被害と認識してお母さんの支援が入ればお母さんが加害者のならなかったし、子供も命を奪われなかったと悲しく思う。
DV加害者とDV被害者の間で適切に対応が
されないまま放置されてしまったり
児童虐待にだけ着目される支援されると
子供への虐待が悪化してしまう恐れもある。
DVの問題は解決されないことで問題が根本的に解決に向かっていなく見えてるあく取りをしてるに過ぎないと思った。
DV加害者の矛先が子供に強く向けばDV被害の母親は従うしかないと思う。
とても悲しい。
児童虐待の背景に母親へのDV被害がないかも見つめる眼鏡と
いろんな機関が
児童虐待の知識やDVの知識が必要で、そして再び傷つかないためにトラウマインフォームドケアが広がって欲しい。
そして、もしも子供が保護されたとしたら
生きてて良かったと
思える児童福祉の体制と心の早目のケアと
そして施設出た後の支援がよりととのて欲しい。
私自身、目黒の事件に似てる家庭に生まれたと
支援者からみんなに言われるが、保護された後がケアもなされず、きつかったし。
20歳で施設を出て一人で親とは関係を切り、虐待の傷を抱え生きていかねばならず、命を大きな危険な社会で自己責任で守らなければならなかった。
今も生きるために必死である。お金を稼ぐことも(大検が最終的な学歴)、自分の病気と付き合うことも。そして、何よりも安全の中の人間関係が35歳で初めてわかった。虐待の家で生まれて人間関係がわからない。
社会にでるスキルを子供の時から積み上げれていなくて心はいつも葛藤と孤立。どんなに理解されても安心を感じなくなったり、その人まで疑い、人を本当に信じれず、
死にたくなることもある。
だから、母子ともに保護せれたり支援がなされたとしても私みたいに支援者からの傷つきを繰り返してほしくないし、安心したトラウマの知識と、トラウマインフォームドケアの概念を守った安心安全の支援の輪の中でその人が心から笑顔でこの社会で人とつながり生きていけることを願う。
そして、
最後に、児童虐待の傷は、今、病気で苦しんでる人がいるならば、言いたいことは、最悪な出禁を繰り返して暴れまくってた支援者を困らせたどうしようもない自分も良くなってきました。あなたは再演で支援者を加害してることもある。でも支援者から傷つくこともいっぱいあるはず。でも、今の人間関係や、今までの人間関係が苦しかったかもしれませんが、支援されることは、難しいから、あなたは人して悪くありません。傷つけ合う関係がよくなることもあるし、逃げた方が良い関係もあります。
でも諦めなければ、回復します。人として生きてる、今は一人かもしれないけど、あなたは生きてて良い存在であることをそして、傷が回復して、良くなることを、いい方向に進むことを、心から願ってこの文終わりにします。
長い文を読んでくださりありがとうございます。
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