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ちょっとだけ顔をゆがめて

サガンの「悲しみよ こんにちは」を、自分の誕生日に合わせて購入した。

自分の本棚には入らないのは重々承知の上で購入し、すぐに職場の本棚に収めて、暇があったら読もうと思い半月が過ぎ、今日の昼に気が向いたので少しめくってみた。

最初のページにエリュアールの詩「直接の生」の引用がある。題名にもなっている詩だった。

エリュアールという詩人を、ある詩人に勧められ、良くしてくれている古本屋で1冊彼の詩集を購入したことがある。

正直しっくり来なかった。正確に言えば、その頃の私は“ぼく”や“きみ”や“愛”という語の入った詩に対して、アレルギーのようなものがあったからだ。

2年半という月日は恐ろしい。
私は“ある詩人”と疎遠になり、サガンの小説に引用された詩に、酷く胸を焦がれた。何もかも変わってしまった。良い意味でも、悪い意味でも。

10分程度で読み進められたのは少しだったが、私を惹きつけるには十分な時間だったし、何よりサガンの文章の呼吸は、私にとても似ているような感じがした。持って帰ろう、そう思ったが見事に忘れて今、落胆している。

そこで、改めてエリュアール詩集を捲ろうと思い立って本棚を探す。あった。彌生書房から出ている世界の詩シリーズのもので山崎栄治訳。日焼けし、箱も無く、魚の表紙。なんど見ても好きだなと思う装丁。

初期の詩を読むと、吐き捨てるような抗えなかったような、そんな言葉が多く、彼は不条理に怒れる人間であり深く愛せる人だと言うことが嬉しい。

年数を重ねた詩は少しずつ、柔らかさが出てくる。

「直接の生」は、初期のものに比べると、不特定多数の不条理を具現化したような人間に吐き捨てる言葉から、ちいさい子供に優しく言って聞かせるようなやわらかさに溢れ、しかししっかりと目を見つめているような感覚を得られる。

ちょっとだけ顔をゆがめて

悲しみよ さようなら
悲しみよ こんにちは
お前は天井の線のなかに刻みこまれている
おまえはぼくの愛する眼のなかに刻みこまれている
おまえは貧苦と同じじゃない
だれより貧しい唇が
微笑でおまえを告発するんだから
悲しみよ こんにちは
愛らしいからだへの愛というもの
愛の力というもの
その愛らしさはまるでからだのない
魔物のように浮かび上がる
しょんぼりとして
悲しみよ きれいな顔。

サガンの文章の、柔和で、しかし芯を捉える感覚ととても良く合っていると思った(まだ30ページほどしか読んでいないが)。

本文中の、「貞操などというものに、魅力を感じる年齢でもなかった」という言葉が、本を開いていない今の私にすら強く響いてくる。

本を読んで“これは自分だ”と感じることが出来るうちに読んでしまいたい。本は数カ月読むタイミングが違うだけで、身体から離れて行く感覚を有している。

エリュアールの詩集を開く。私の孤独を愛撫する、やわらかな夏の雨の夜へ。

水はなにものも傷つけることのできない
皮膚のように、
人間に、さかなに、
愛撫されている。
              −「濡れて」より


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