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「嵐」に浸って感じた、アイドルとファンの関係性の変化

ある日、ふと「嵐」の曲が聴きたくなって、サブスクで曲を漁った。
今は便利な時代で、たいていの曲はサブスクで聴けてしまう。
活動休止でも曲を聴かせてもらえるとはありがたい。

久々に聴く嵐の曲たちは、平成を生きた青春をプレイバックさせるようでなんだかキラキラしていた。

イヤホンの向こうには確実にあのとき恋したアイドルが存在していた。
嵐の曲を聴くときは本当に恋に落ちたみたいな感覚になる。
まるで私自身に魔法がかかったみたいで心に輝きが増す。

こんな気持ちになったのはいつぶりだろう?
この日を境に仕事中とか作業中も「嵐」一色になった。
するとどうだろう。
なんとなく過ごしていた日々がドラマみたいに世界そのものが輝きだした。
足どりも軽く、心は踊り、空も高く感じる。

嵐の歌詞を改めて読んでみると気づくこともあった。
One Loveのサビの歌詞が特に顕著で

百年先も 愛を誓うよ
君は僕の全てさ

嵐「One Love」より

今のJ-POPにこんな大胆な愛を伝える歌詞はあまり見られない気がする。
当時の私は確かに「君」だと感じていたし、こういう恋をしたいと思っていた。

嵐の歌詞にはたくさんの「君」がいて。
私たちはその「君」だと感じながら曲を聴いていた。
嵐は私たちを輝かせてくれる《アイドル》だった。

そんなことをふと思いながら、シャッフルで最近の曲を聴くと気づくことがあった。

最近の流行りの曲の中に「君」の存在は感じられないなと。
どちらかというと「自我」が強く感じられる。
「僕」とか「私」とかそんな存在が大きくあるような感じ。

その「私」が感じていることや、苦悩とか自己顕示欲とか、
そういう要素が多く散りばめられている。
私もそういう歌に共感したり、胸を刺されたり、救われているけど、
比較して聞いて見なければ気が付かなったと思う。

自分自身も演劇とかの「活動」をしていると応援される場面というのが、ありがたいことに存在する。その中で感じていた違和感があった。
私は自分が行動したり夢を叶えることで応援してくれてる人を元気づけたり、自分の夢を叶える原動力になりたいと思って活動している。

だけど周りの反応はそれに反していて、私が引っ張っていこうとすればするほど、

「あなたの夢が叶うことを祈っています」

みたいなお祈りをもらうことがある。
「祈ってるのはこっちなんだが?」といつもツッコみたくなる。
こういう言葉をもらうたびにボタンを掛け違えている感覚に襲われる。

夢を叶えるときに手伝ってもらう仲間とかにもよく言われる。
(これは私のチームマネジメントの手腕が問われている気もするけど)

チームとして一体化が出来ていないのか、そういうもんなのか……
わからないのだけど、なんとなく「推し」文化ってそういう構造なんじゃないかって思うようになった。

「推し」が「夢」を叶えるのをファンが「消費」している感じ。
「夢」そのものが消費コンテンツになっているようなそんな感じ。
推しが夢を叶えるために仕事をしてお金を貯めて消費していく。
お金だけでなく「自分自身」も消費して消耗してく。
それが今の「推し活」のような気がしている。

嵐に感じたものってその逆で、
「アイドル」がファンに「夢」を与える。
ファンはそれを「原動力」にして生きていく。
そんな関係性だった気がする。

私は後者のイメージで活動していたつもりだったのが、周りは前者の感覚で接してくるので違和感をずっと感じていた。

「推し活」とはうまく言ったもので、私はそんな言葉を受け取るたびに「押されている感覚」がしていた。それは背中を押される感覚でもあるのだけれども、どこか距離を置かれてる感覚にも近い。

演劇とかライブみたいなものって観客がいないと成立しないもので、
観客も含めて作品みたいな感じだと思っていたんだけど、
そこには断絶された溝のようなものがある気がする。

これはコロナによってリアルな空間で一体になるという体験が失われたからなのかという仮説もある。

でも嵐のライブ映像を観ているときは、そこに居なくても会場にいるつもりになれたし空間のひとつになってるように錯覚できた。

今は画面とリアルが断絶されて、明らかに違う存在同士になっているような。キッパリと世界は隔てられてしまっているように感じる。

たまたま嵐を聴くことがなかったら感じることのなかった感覚。
言語化しないと気持ち悪かったので備忘録として残しておく。
異論は認める。

私は百年先の愛を誓われたいし、僕の全てと言ってくれるような恋をしたい。