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秋の夜長の文化人類学的つぶやき

涼しい秋の夕、鳥の鳴き声をしみじみと味わいながら、そうそうそんなことも考えていたっけなぁということを思い出した。

学問的ではあるものの論文未満。

よどみにうかぶうたかたは、かつきえかつむすびて久しくとどまりたるためしなし

人間が弱肉強食のピラミッドの頂点にいる生物なのだとしたら、肉を食べる「文化」をつくってきた人間のほうが「人間らしい」のだろうか。動物の生、動物の屠り、それらと向かいあってきた文化にはそれに応じた独自の文化が形成されている、それは、動物という人間の自由にならない精神に対し感覚をとぎすませる文化であると思う。その場合、稲作という精神を発しないものによりそう「文化」に生きてきたわたしは、人間として不出来なのだろうか、人間とは、という、ちょっとアンニュイな秋らしい話題です。いいですねぇ、いいですねぇ(他人事)。

この議論をはじめるにためには、整理しておかねばならない点がひとつある。日本人は今では肉を食べるじゃないか、日本人もいまでは肉食文化だといえるのではないか、という点である。実はわたしはそうは思っていない。もともとそれに重きをおいてこなかった文化で食べるようになった肉には、米を基盤とした言語による位置づけが与えられている、つまりそれは米的肉なのだとわたしは思っている。 

えぐるようないいかたをするが、日本は公衆の面前で、子供の前で、いま大動物を殺せるか。

日本の屠畜文化についてさらう過程で、わたしはそのなにがしかの欺瞞を残して処理される命に、日本はやはり肉を食べる文化を正面から構築する機会を失った文化なのだ、と思うようになった(たとえば三浦編 2008:25-29と姉崎 2002:184との比較など)。

イスラームの国では、世帯の庭や前の道で家族のひとりが羊を屠る。牧畜民のところでフィールドワークをしていたとき、家畜の子の一頭が病気になって死んでしまったことがあった。しんみりするのかとおもいきや、おばあさんがそのからだを藪に置いてきて(犬にたべさせる)、いつも通りのみんなのにこにこがあって、「塩まかなきゃだめじゃないかな」「残念でしたね、という態度とらないとだめかな」「何が悪かったのか考えなきゃいけないのかな」という思いに肩透かしをくらったのをおぼえている。

もうひとつは、稲作も牧畜も、狩猟も、じかにやっているひとは少ないじゃないか。わたしたちはもう皆街人だよ、都市民だよ、という意見である。

これについては、一神教が牧畜とむすびついているということを調査する過程で、そこの宗教が牧畜の精神を凝縮したものとしてそこにあったということをみるにいたり、都市とはひとをかえる環境たりえなかったのだと思うようになっている。地球に直に触れたことこそが人をかえ、都市はそれを維持する場所にすぎなかったのだと。初めてGhost in the shell(映画版)をみたとき、これからネットという環境にうまれた人間というのもありうるのかとどきどきしたが、今はそうは思わない。ネットでどんなにつながっても日本人は日本社会をつくり、イスラームはイスラーム社会をつくる。

もし動物を食べる文化のほうがすぐれているとして、それは狩猟か、それとも牧畜か。かみさまは世界にこの「文化」という不可思議きわまるものをつくって、そのぶつかりあいの果てに何がどうなることを望んでいるのだろうか。文化人類学者として、某イスラームの民族のこころに、先方から日本への理解が微塵も感じられなかったとき、この2つの文化はもうそれぞれ独自の進化の方向にすすみだしてしまっているのではないかとさえ思った。もし一番人間らしいのが牧畜だとした場合(イスラームの土地をみているとよく考える)、乾燥しているところに住んだ人間がもっとも人間らしい人間だという仮説はありなのか?森からでてきた猿は乾燥地でもっとも進化するのか???

わからーん。

日本は社会的に共同で動く社会だから、それによっていろいろ面白いものも作り出してきたけど、10年20年たっても全然かわらない某イスラームの国の都市で、それぞれがばらばらで、あまり変わることなく生きるのも、人としてあるべき姿なんじゃないかと思ったりすることもある。でも、その発展しない都市に住んでいた人が病気になったとき、日本の病院にいきたい、ヨーロッパで治療をうけたいといったりしていたのを聞くと、この国を補完するために日本やヨーロッパは必要だったのかと思ったりもした。携帯もパソコンも、ここではないところでつくられて、その恩恵はどんどん受けるのがこれらの国でもある。日本はその技術でこわしてきた環境も多いだろう。原発大国、環境汚染。この世界をつくってきた神様は、なんで日本人のような文化をつくる余技を発揮したんだろう。わたしはこの世界で日本人としてある意義を、国際的な場でどう主張できるんだろう。どういう根拠で?

森でいきていた猿は、森で人間らしくいきることはできるのか。

だとしたら間違っているのは食物連鎖のピラミッドのほうなのか。



栗食お栗。





姉崎等 2008『クマにあったらどうするか―アイヌ民族最後の狩人』木楽舎。

三浦耕吉郎(編) 2002『屠場ーみる・きく・たべる・かくー食肉センターで働く人びとー』晃洋書房。

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