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『この村にとどまる』~娘のゆくえについて~

※ネタバレに繋がるのでご容赦ください




前回、『この村にとどまる』という本の感想をアップしたが、そこに書ききれないことがあった。
主人公トリーナの娘、マリカの失踪についてだ。

自分はこの本で幾度となく、マリカという人物に思いを馳せた。
彼女はなぜ村を出ていったのか、そしてその後、どこでどうなったのか。
このことまで前回の記事の内容とまとめて書くのは技量的に難しかったし、中途半端な内容になるのも嫌だったので、思い切って記事を独立させて書くことにする。

まず、マリカについてだが、エーリヒとトリーナの間に生まれた娘で、4歳上にミヒャエルという兄がいる。
トリーナは女の子が生まれるのを心待ちにしていたようで、絶対にマリカという名前にすると決めていた。正直、ミヒャエルが生まれた時よりも思い入れがあり、喜びが大きかったのではないかと推測する。
成長したマリカは、ファシスト政権下で変革させられた学校でも喜んで通い、「イタリア語も上手に喋って」いたという。学校で書いた作文をエーリヒに読み聞かせ、良い成績をとったノートをトリーナの目の前でひらひらさせながら、「大きくなったらあたしもママみたいな先生になるの。嬉しい?」と訊く。とにかく、勉強が楽しかったのだろう。

そのマリカが失踪したのは1939年、10歳の時である。
この頃、ファシストに抑圧され続けた住民は、いつかヒトラー率いるナチスドイツが自分たちを解放しに来ることを願っていた。そして件の1939年にドイツ軍がやってきて、住民にイタリアを捨ててドイツ国の住民になるかどうかの選択を迫ってきたわけである。
村はイタリアから解放される時が来たとお祭り騒ぎになるが、それは何世紀にもわたって先祖代々暮らしてきた土地を手放さなければならないことも意味した。やがて住民たちはドイツへ行く選択をした者たち(オプタンテ)と、少数派ながら村にとどまる者たち(レスタンテ)に分かれることとなり、互いにいがみ合うようになった。これは前回の記事でも言及した通りだ。
トリーナの家はレスタンテの立場であった故、ミヒャエルが数人の子ども達から袋叩きにされる事件があった。それ以来、トリーナはマリカを学校に通わせるのをやめ、目を離さないようにした。
しかし、そのような状況をマリカ自身は良しとしなかったらしい。

 けれどもあなたは不満げで、ママは心配性だとか、あたしはみんなに一目置かれているから、教室では誰もあたしに手を出す人なんていない、などと反論しました。そして、工房にいるあいだじゅう何度も尋ねました。
「なんでうちも村を出ていかないの?」
「あなたのお父さんがそう決めたからよ」
「ママ、あたしはこの村を出ていきたい。ここでは学校にも通えないんだもの」

『この村にとどまる』P. 58より



そして事件は起こる。
伯母夫婦(エーリヒの姉夫婦)の家に泊まっていたマリカを翌朝トリーナが迎えに行ったら、家がもぬけの殻だったのだ。
やがてドイツ国への移住を選択した者のリストにマリカの名前があったことを知る。最初は連れ去りと思われ家族総出で捜索するが、ある日マリカ本人から一通の手紙が届く。そこには、自分からドイツに行くことを選んだ、ここでは勉強ができてもっといい成績もとれる、戦争が終わったらクロン村に帰るから、伯母夫婦を、そして自分を赦してほしいと書かれていた。

随分前置きが長くなってしまったが、初読の際は、後半あたりで物語の語り手として出てきたりしないだろうか…とも思っていた。しかし戦争が終わった場面まで読み進めたあたりから、なぜだか「ああ…、これは…」と何となく感じた。そして、少なくとも小説としてはそうあるしかなかったのだろうな、とも感じた。
正直、どこまでが本当のことかは分からない。ましてや小説なのだから、答えなどあるはずもない。しかし、自分が文章から読み取る限りでは、やはりマリカは自ら進んで村を出たのだろうな、と思えてしまう。
勿論、伯母夫婦が何らかの形でそのように仕向けた可能性もなくはない。様々な要因も絡んでいるであろうが、一番はやはり自分の意思だったのではないか。
つまりトリーナたちからしてみれば、よりによって最愛の娘が家族を、そして生まれた土地をいとも簡単に捨てていったわけである。二重の裏切りだ。マリカ自身にその重大さが分からなかったはずがない。それだけ、頭が良く、年齢の割に大人びた子なのだ。
これほどに聡く、自分の考えを主張できる女の子が、ただ「親の意向だから」と素直に従うかどうか。読み手からすると、それはマリカらしくないな、と思ってしまう。≪自分の人生なのだから、自分で道を選び取ってみせる≫という、自立性の高さが垣間見えるのだ。
「自分は学校で一目置かれているから心配ない」と言い切れる強さ。それは子ども特有の全能感のようなものから来るのかもしれないが、この場面は、トリーナが娘時代にファシストの目をかいくぐって、地下墓所で非合法のドイツ語教師をしていた時の大胆さを彷彿とさせる。
また、自分の主張を曲げずに貫き通すのは、どれだけ虐げられようともクロン村にとどまるために闘い続けたエーリヒの姿と重なる。

要するに、マリカはどこまでも≪エーリヒとトリーナの娘≫であり、ことにトリーナにとっては≪自分の分身≫だったのではないか。おまけに、母と娘は外見も「二滴の雫のようにそっくり」だと村人から言われていたくらいだ。
本質は似通っているのに、考えや行動は正反対。
それだけに、不本意極まりない別れ方をした娘のことで長年心の整理をつけられないのも仕方のないことかもしれない。
読み手としては思わず、本人のしたいようにさせればいいじゃないと言いそうになるが、平和な時代に生きる年頃の女の子が都会に憧れて上京するのとはわけが違う。当時の世界情勢と状況が良くなかった。

結局、マリカは失踪の場面以来登場することはない。あの後どのように暮らしていたのか、そもそも戦争の中無事に生き延びられたかどうかすら、読者の想像次第である。
けれど、自分としてはこう思う。彼女のことだから、過去の自分の選択を胸に、行きたい道を進むためにただひたすら前へ進んでいったのではないか。家族を裏切るようなことをしたのだから、なおのこと村に帰ろうなんて浅はかなことは考えない、と。もしくは単に、合わせる顔がないと思っていたか。あるいは、ダム建設のために遅かれ早かれ村が消滅することを知っていたのかもしれない。
いずれにせよ、彼女なりの人生をしたたかに生きていったと想像する。

ここまでいろいろと考えるのは、やはり読み手としてどう解釈すれば心に受けた衝撃を和らげることができるのかと、防衛本能のようなものが働いたのかもしれないが。


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