見出し画像

ことばが内包する《声》について


ゆっくりと黙読するとき、耳に響くのは、まさに聴覚像(イメジ)としか呼びようのないものである。それは、現実の聴覚とは、はなはだしく距ったなにものかである。(岡井隆)

岡井隆・金子兜太共著
『短詩型文学論』(1963年)

 以下のひとりごとから、この小論(っぽい雑談)は始まります。

  • 推敲するときに音の流れを何度となく確認するけれど、み上げて音声で確認しない方がよいのね。読み手はふつう音読しないから。

  • 小説が映像化されて感じる違和感のおおもとにも、これがあるのかも。よく、俳優さん、声優さんのイメージがあわない、と認識されるけれど、本当のところを言えば、誰の声でも合わないということね。

  • 私に聞こえる(気のする)アモールの声もプシュケーの声も、《聴覚イメジ》なのね🤔

  • そういえば、子どもが読書好きになり損なうきっかけのひとつとして、親に読み聞かせしてもらっている頃の、一文字ずつを音に変換して理解する段階から、音を介さずに文字を意味に直結してすばやく理解する段階への移行がうまくいかないパターンがある、とどこかで読んだ。(対処法については書いてなかった🤔💦 運動の習得と同じく慣れの問題? 読書はスポーツだ、と仰るエッセイストもいます。)

  • つまり、読書には、「聴覚イメジ」を使うジャンルと使わないジャンルがありそう。前者は短歌や俳句、一部の詩など、短詩系文学。後者は、エッセイ、論説文など。小説は、セリフは前者、地の文は後者…かなあ・・・?





 ことばは、「意味」と「聴覚イメジ」を喚起する「記号」なのだけど、「実在する人の声」や「耳で聞いたときの響き」が幻聴のように重なる。
 「聴覚イメジ」には確実に、かつて実際に聞いた好きな/不快な声、さらには大切な人(親子や恋人など)の声、心を揺さぶった声が多分に含まれていて、それらの結晶とも言えそう。だから、現実のどんな美声よりも美しく、かっこよく、また時には強く残酷に響くのでしょう。


 先日、「書きたいもの」そのもののことを「蝶々」になぞらえ、「蝶々をいれておくためのことばの籠を編むことしかできない」ことを書きました。なぜ「蝶々」なのかというと、蝶は「プシュケー」のアレゴリーだからです。↓


 さらに、「ことば」がおそらく持っているはずの特殊性について考えたくて、以下の記事を書きました。↓


 今回のこの記事は、3部作の3つ目にあたる小論(っぽい雑談)となります。個人的にある種の諒解感を得たので、たぶん、これで一旦は完結するはずです。
 それにしても、前回に引き続き、この話題を語ろうとすると、語彙(概念)が貧弱すぎて、霧の中で話している感じがします。関連本、読まないとね(-_- ) でも、どの分野の本を読めばいいのか…🤔



「ことば」は、
①書きたいもの(=蝶々)を直接には捉えられない
②「ことば」にしたあとは、読み手の解釈にゆだねるしかない
③読み手の心の中で再生される「聴覚イメジ」に、書き手が影響を与えることはほとんどできない

 さらに、⓪として、「書きたいもの」は、実は「聴覚イメジ」でできている。だからこそ、どうやっても「記号」で表すことはできない──という仮説を立ててみました。「書きたいもの=蝶々」は、追慕し続けるしかない、ということになります。

 私が「ことばとはなにか」を問うとき、その問いが「あなたは誰?」にすり替わるのは、蝶々=魂であるところのその《声》の持ち主に「再会」したい、という切ない願いゆえではないか…とも、思います。会ったことはないはずですが、感覚としては「再会」です。


 書き留められたことばや文学、特に、ことばそのものと濃密に関わる媒体メディウムである詩は、その「書きたいもの」に迫ろうとする数々の、乗り越えがたい苦闘にたおれた人々のルポルタージュであり、墓碑銘でしかないのかもしれません。


 そして、書き得ない以上、次善の方法は、(上掲の詩『ことばと花と』にも少し書きましたが)「自分の力で」「いつでも」「何についても」書き表そうとするのではなく、時には「蝶々と戯れる」「花びらの上に休ませる」こと、ではないかと感じます。この言い回しが比喩、象徴詩の方法を取らざるを得ないのは、その方法でのみ、なんとなく指差せた気がするからです。


 「ことば」だけにある複合性、重層性。なんという媒体メディウムなのだろう、と、ちょっと感動している今日この頃です。

 だけど、これは私が絵画や音楽など、他の創作をほぼしてこなかったため、ことばに対してのみ変に(相対的に)解像度が高くなっているせいなのかもしれません(^^ゞ
 いろんな種類の創作について、お話を伺ってみたいものです。



 さて、さて。ここから先は個人的感慨ですので、ご興味があれば…という程度ですが…(◔‿◔)

 前述の内容は、私が常々抱えている「神様問題」とも同根だと思うのです。

 人は神を理解したり、全体像を把握することができず、関わろうとするなら、祈ることができるだけ。一方通行であり、謂わば究極の片想いです。
 人間は、大いなるもの、大自然や超越的存在、永遠なるもの、非凡なものに思いを馳せたい心を持っている。それらを求めること、思いを重ねること自体が目的であり、そこに意義や歓びを見出す。

 そのような、イデア的な…空間で言うなら高い場所を規定し、その星を見上げていたいと望む憧れが、「神」という概念を生み出したのかもしれません。

 それなら、私にとっては、神様にあたるものが「ことば」であっても不思議ではない感じがします。

 ことばというものの声的な面、つまり人格的な面にフォーカスするとき、私はそれを《ミューズの君》と呼びます。儚さ、捉えがたさにフォーカスするとき、《蝶々》と呼ぶと、具合がいいようです。

 キリスト教の「三位一体」になぞらえるとして、残りの一位格ペルソナがなんなのか、まだ考えたことはないけれど。

 私の中で、「神様」と「ことば」が一致し、腑に落ちたら、受洗しにいくかも? もしいつか受洗するとしたら、その時だろうと思います。(なぜ受洗について考えたか、は、また日をあらためて。)

 だって、『ヨハネによる福音書』に「言葉は神である」って書いてあるんだもん。私が、「神様はことばの神様で、ミューズの君で、蝶々です!」と決意表明しても「異端」とは言わせません。(?)

初めにことばがあった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は初めに神と共にあった。すべてのものは、これによってできた。できたもののうち、一つとしてこれによらないものはなかった。この言に命があった。そしてこの命は人の光であった。光はやみの中に輝いている。そして、やみはこれに勝たなかった。

ヨハネによる福音書1:1-5


 なお、この「ことば信仰」みたいなものが現れた背景について、牧師さまがこんなふうなことを仰っていました。──キリスト教の基盤であるユダヤ教は、国を追われ流浪しながら強まっていったことから、形あるものよりも「言葉」を拠り所とするようになった、と。また、別の日に、ユダヤ教&キリスト教の聖典である旧約聖書の神と、キリスト教の聖典である新約聖書の神は、聖書の説明によれば同一です、とも。

 ですので、キリスト教の神様を「ことばの神様」と呼んでも、まったく間違いということにはならない…と思っています(◍•ᴗ•◍)✧*。



今朝、冒頭の言説をたまたま見かけてしまい、また寄り道記事を書いてしまいました(^^ゞ


川沿いの緑地で見かけた薔薇

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?