見出し画像

「文芸ウイルスによる重篤な合併症です」|再び〈書くとは〉〈note掲載とは〉に立ち返る


書くということは、決して表し得ない、言い当てられない空虚に耐えることなのかもしれない。



 先日、ジャック・ラカン哲学者・精神分析家の解説書を読んでいたら、以下のフレーズに出会いました。

言葉とは《存在の代理》である。


 たとえば、小さな子どもが、母親が部屋からいなくなったのを寂しがっている。「お母さんなら、すぐ戻ってくるよ」と教わる。子どもは「お母さん」という概念、イメージを手に入れることによって少し慰められる。「おかあしゃん」と口にすると、心が少しあたたまる。

 けれど、その代償として、母親が帰ってきて抱き上げてくれても、それは《母親そのもの》ではなく言葉によって対象化された「お母さん」であり、二度と《母親そのもの》を取り戻すことはできない。

 言葉を手に入れたときに、引き換えに、《リアルなそれ自体》を手放してしまうのだそうです。

──ちょっと難しいけれど、ある感覚を非常にうまく説明してくれる言説だと思いました。(わかりにくい場合は、ひとまず続き↓を読んでみて下さい。)


 ここから先は「書くこと」の中の基本の一歩目、「思いを表現する」について、私の解釈を書いてみます。

(なお、「表現する」の奥に、第2段階として「創作」があるように感じています。あくまで、私個人の捉え方です。)


 たとえば、恋人について、だれかに説明するとします。
 「彼は優しい人」と言った瞬間に、(いや、優しいだけじゃなくて、果断なところもある)と思う。
「けっこう果断なところもあってかっこいいんだよね…」と言った途端に(いや、そんなのじゃなくて、結局、笑顔がキュートなところが魅力なのよね。でも、他にも……)と思う。
 …こうして、次々と言葉を連ねていっても、彼について言い尽くすことができないことに思い至る。

 結局、言葉で語り始めてしまったら、永遠に語り続けなければならない、ということになりそうです。むしろ何も語らず、その彼のことをぼんやりと思い浮かべて、昨日会えてよかったなあ…などと思いをめぐらせている方が、安全なのかもしれません。

(このことは、言葉だけでなく、作曲や描画など芸術一般に当てはまりそうです。)


 さて、ここで、小説を書くときのことについて説明してみます。
 書くというのは、上述のように、「彼は背が(低くはなくて)高い」「髪が(茶や金や赤でなく)黒い」というふうに《限定》していく作業なので、豊かなイメージを再現するために、言葉を並べて《描写》を試みることになります。「彼は背が高く、髪は黒い色をしていて、漆黒の瞳をあわせると夜の精のようだった。」とか、まあ、そんな具合に。

 そのあとで、その文章を読み直すとき、私の心の中に結ばれる像は、描写された以上のなにものかであるはずです。ひとつひとつの単語から連想されるもの、つまりこれまで読んできたいろんな本や絵など、先達たちが築き上げた創作の痕(※)(=私が心に蓄えているイメージ)を呼び起こし、それを言葉に重ねながら読むわけです。(※ 私が、自作の半分以上が自分の"手柄"ではない、と感じる所以ゆえんです。私の存在はごく小さいものです。)

 ということは、書いているとき、ではなく、読み返しているときに、(読み返すことによって、)その間だけ《完成》している、ということになりそうです。


 ここから先は全くの思いつきですが・・・作品というものは誰かに読まれることによって《完成》してもらいたがっている、という仮説が成り立ちます。それは書いた私でもいいし、他人でもいい。他者が読むと別の《完成》のされ方をしますので、読まれることは(書いた私ではなく)作品自体が望んでいること…なのかもしれません。

 ウイルスが、単体では生き延びるための活動(増殖)ができず、宿主しゅくしゅのなかでのみそれが可能…というのを連想しました…ウイルスといっしょにしてはいけないのでしょうけど…。
 でも、本を読んでいるうちに、一部の人が"書きたくなる"わけですので、《感染》と似ています。
 そして、ウイルスたちは、《感染》を広めるように仕向ける仕組みを持っている。つまり、noteに掲載したくなるわけです。本に中毒し、書き始め、公開までしてしまう──《文芸ウイルスによる重篤な合併症》ということに、なりはしないでしょうか。
 バリエーションとして、読書感想文や名言紹介といった*症状*の出方をすることもある。また、シェイクスピア株(感染力が強い)やプルースト株(長期加療が必要)、ナボコフ株(重症化しやすい)、カフカ株(変異しやすい)など個性も様々です。


 …どうしても、「私の作品を見て!」などの自己顕示欲(?)には思えないのです。作家でも、「過去作品は黒歴史。自分で読み返せません」と仰る方もいます。それでもなお、誰かに読まれるよう出版したいのです。
 また、私などよりはるかに慎ましそうな方が、ひっそりとためらいがちに、自作の詩をnoteに載せているのを見かけたりします。「誰も私を見つけないで」と祈りながら掲載しているのは、心当たりがあるだけに不思議なのです。

 ほんとうに重篤だった作家、命さえ落とした文豪のことも、思い出されます。

細菌は単細胞の生物であり、細胞分裂により増殖します。基本的には、栄養素さえあれば、自身のみで増殖できます(注1)。一方、ウイルスは生物の細胞に感染する複合体で、細胞ではありません。ウイルスは生物の細胞に入り、その中で細胞の機能や構造に依存して増殖します。

↓理研のサイトより↓





 以上、自作小説を掲載するに当たって、悶々と葛藤している私の呟き泣き言でした。

 作品を掲載するのって、「恋人をみんなに紹介する」みたいな、気恥ずかしさと緊張感があるものですね。それが他人にとって、それほどたいしたことではないところまで含めて。

 このまま、手に手を取って駆け落ちしちゃおうかしら、なんて(>∇<)

この記事が参加している募集

#振り返りnote

84,756件

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?