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フォロー下さっているみなさまへ
みなさまへ
細々と目立たず更新している私のnoteですが、にもかかわらず、時々、フォローくださる方がお見えになります。
私からもフォローバックしたいのはやまやまなのですが、私自身のキャパシティの関係で難しいことも多いので、今回はそのご説明とお詫びをば。
時々ちらっと言及することがあるのですが、目の病を患っており、端的に言うと「手帳」所持者、視覚障害者です。いわゆるロービジョン、重度障害ですが、今のところ一番重い区分ではありません。
進行性の特定疾患のため、あまり無理がききません。というか、ついつい無理してしまうので、セーブしなけれぱと日々反省しています。
寿命のほかにもうひとつ砂時計を与えられていて、どちらの砂が早く落ちきるのか...どのくらい年月の差があるのかは、神のみぞ知る...というところなので、本当はあまり、読んだり書いたりしないほうがよいのでしょう。
でも、一生涯優良な視力を保つために、目を閉じるか遠くを見つめるかどちらかしかしない...というのでは、なんのための視力かわからないので、物事の優先順位をきちんと見定め、無理なものはごめんなさいと謝って、多くを望まず有意義に過ごせたらいいなと思っています。
スマホのアクセシビリティ/ユーザー補助のお世話にもなりつつのnoteです。いつまで続けられるか分からない...というか、続けていていいのか分からないのですが、当面はやめるつもりはなくて、無理のない範囲で続けるつもりです。
フォローしたい方もいます。味わい深い記事であることが読む前から確信できるような方も、具体的に思い浮かびます。ですが、更新頻度や量的な問題で、フォローを思いとどまっています。余裕ができたら...とも願いつつ。
フォローするなら、きちんとお付き合いしたいから。
同様の理由で、一時期はフォローしていたけれど、外さざるを得なくなった方もいます。
にもかかわらず私をフォローし続けてくださる方には心苦しい限りです。どうぞいつでも心おきなくフォローをお外しくださいますように。
ご連絡は以上です。
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長いひとりごと
ここからあとは、長いひとりごとですので、読まなくても大丈夫(^^ゞ
そして、今回発話いたしますのは、真面目ながらもややドライ...な性質のペルソナ。泣き崩れたりされるとご迷惑でしょうから...。(もともと泣き崩れたりするタイプではありませんが(^^;)
※ただひとつ気にかかるのが、私と同じような境遇におられる方に対してです。
社会的に眺めたとき、障害というものの程度は、ひとくくりずつラベル分けされます。でも、実際には同じラベル/同じ病名であったとしても、障害の表れ方は千差万別です。
そして、いわゆる"健常者"と地続きのグラデーションであり、別のエリアに住んでいるわけではありません。老化などにより、できていたことができなくなることと本質的には変わらないようです。
(さらにいえば、困難さを抱えつつも、制度の狭間で、掬い上げてもらえないままの方もおられることを、心に留めておきたいです。)
また、個々人のおかれた状況により、生活上の困難さも様々です。
ですので、その方々のご苦労やご心痛、ご家族の心労を思うとき...自分の障害について語るのなら、ひとつの例証として、「ありのままの不便さと感情」を、「ありのままの温度と熱量と密度」をもって語るべきなのかもしれません。
ですがそれは、ふだん私が虚構と幻想を着込んだときに、たまに、そっと仮面を外してつぶやいている事柄でもありますので、敢えて日常の記事に譲ることとさせてください。(というより、仮面が落ちていたことにあとで気づくのですが...ネモフィラの君のおはなしとかね。)
私が詩や短歌を書くようになったのは、ここ半年ほどのことで、それまでは(生活環境によるブランクもありつつ)物語を書いていました。
質はともかく、長いものだと厚めの文庫本上下巻ほどのものも書いたりしていたのですが(今思うと稚拙だったわ...遠い目)、目が悪くなるにしたがって、だんだん短くなってきました。
目の病気は大人になってほどなく、大学病院で診断を受けました。その年齢での宣告はかなり衝撃的で、当然ながらひどく悩みましたし、一人になるとずっと泣いていたような時期もありました。
ですが、人間というものは良くも悪くも、100%の力で喜び続けたり絶望し続けたりできるものではなく、静かな諦めに収束していくもののようです。
もっとも、世の中には大変なことがたくさんありますから、私のそれが客観的にみて絶望だったのか、また絶望に値したのかどうかもよく分からないと、今では思います。
目の症状はいろいろありますが、noteに関係するものをあげておくと。読める量が限られること、読み飛ばしのあること、誤字脱字。そして色覚が少しおかしいことでしょうか。
20代の初めの頃に、色覚判定の検査で、特定の色の識別にかろうじてパスしたレベルだったので、今は確実にエラー判定だと思います。
黄色の識別が難しいため、白と黄色、青と緑、ピンクとオレンジ、などについては、色彩をスマホアプリで識別して、RGB値を頼りに解析/想像することも増えてきました。(以前お仕事の一環として、ウェブサイトの管理をしていたことがあり、RGB値だと感覚的に色が分かるようになっていたのは幸いでした。)
ですので、たまに、絵を描かれる方のコメント欄で、色を名指し間違える失敗をひそかにやらかしておりますが...ご愛嬌ということでお許し願えればと...最近もうあまり色の名前そのものについては言及しないことにしてる(^^ゞ
「空の色が綺麗ですね。」
(→そのブルーがどの程度シアン寄りかまでは分からないときがあっても、綺麗だと感じています。)
中途障害なので、それぞれの色についてのイメージは世間一般の方々と変わらないのですが。
また、細かな識別に難があっても、大筋ではわかりますので、やはり絵を見るのは好きで、美術館でもnote上でも、ひとしなみに感動するのは、以前より変わらない本心です。
ところで、きっとみなさまが抱きそうな素朴な疑問「でも、カメラは?」について。そもそも、目が悪くなったがゆえに、カメラにはまったという順序なのです。補助機器という側面も大きいのかもしれませんね。遠くにも、シャッターひとつでピントが合うし、拡大すると細かいところまで見えるというのは、ふだんいまいち見え切らない(?)視覚の持ち主にとっては、すばらしい《快》に他なりません。
さてさて。
私の書いている詩などに、《なにかを失っていく》モチーフ、そして《抗わない》《でも、決して忘れない》が通奏低音として流れているのは、こういった背景の表れでもあります。
ゆっくりとこわれていくのを待つくらいなら、いっそ、ひと思いにこわしてくれるなにものかを恋い慕ってしまうのですが――家族に支えられ、その家族を及ばずながら支えている身としては、そんな不健全な甘えは許されません。
死の現実的な無残さをも知る身としては、無邪気に死を淡く想うことも許されず...(そうできていた頃は、物事がもう少し明快だった)
あたたかい腕でやさしく抱きしめて、そっとこわしてくれたらいいのに(儚い指先でシャボン玉にふれるみたいに)と時折り願ってしまうけれど――当然、世の人に求める事柄ではありませんから、天上にいらっしゃるどなたかを慕うことにもなるわけです。
そのひとが私を救ってくれるのか、こわしてくれるのかも、わからないまま。
端的に言えば少し病んでいるのかもしれません。この世の人は多かれ少なかれみな病んでいるわけなので、私は自分をことさら恥じたり誇ったりする必要はなく、note含め身の回りのひとやものを大切に、静かに生きてゆくのみです。
(その分noteにはいろんな想いが出てしまうので、すみませんという他はないのですが...)
生きているうちに、目に映るものすべてを失うのかもしれないとわかって初めて、夕焼けや川面のきらめき、花の儚さをあまりにも美しいと思うようになったのは、愚かなことではありますね。
ひとは生まれ落ちた瞬間から、やがてなにもかも失うことを定められているのですから。
大切なものが増えると、哀しみも増しますが、それはそれ。
たまに心がざわざわと波立つときは、ことばをつづり、そのうちのいくつかをnoteの川面に浮かべて...というのが、最近のととのえ方です。
『夜へ』のこと
最後に、これね――『夜へ』。
目のことをテーマに直球で創作物として書いたのは、これひとつだけ。
個人的に信頼している眼科医(※)の方と、障害を活かして博物館で働いておられるある方のインタビュー記事を読んで、見えない世界の豊かさ(ご本人も、逆説的ニュアンスも含めて、と断っておられます)というものもあるのか...ということに少し積極的な興味を持てたので、書いてみました。
(※)神戸アイセンター病院の高橋政代先生。受診は数回のみでしたが、(多大なる功績を仮に置いておくことが許されるとしても)人間として、女性としてとても素敵な方です。視覚障害を"かわいそう"とは捉えないフランクな姿勢がとても好きです。その分、正当な要求(補助器具を面倒がらずに習得してね、とか)もなさるのですが、そこも含めて💕
私がひとりでは気づけなかったであろう、本当に様々なことを、身をもって(=生き方を通して)教えてくださる方です。
なお、インタビュー記事はこちら↓
https://pr.kyoto-np.jp/campaign/nwc_wise/conversation/conv_2104.html
でも途中から、同じ境遇の方の目に留まることもあるかもしれない...と気づき、その方々のことも意識してかなり書き改めて載せました。
私は、最初のひとりでもなければ、最後のひとりでもないものね。
相変わらず関連タグはつける勇気のない私でしたが...
あの時コメントをくださった方、(そんな深刻なことならコメントしなかったのに💦)とお思いかもしれません。ごめんなさい🙏💦 まるで後出しジャンケンですね😵
ですが、詩は背景を離れて独立して読まれるべきものです。もし解説必須ならそれは私の力量不足。いろんな解釈をしてくださって、私はとても興味深く、うれしく拝読いたしました💕 望んで引き受けた病気ではないけれど、それが血となり肉となり、新たな地平を拓いてくれたことの、ひとつの徴(しるし)だと思うから。
終わりに
この記事全体をお読みになる前と後で、私は同じ私で何も変わらないということも、付け足しておきたいです🤗
本当は、オープンに話したいのよね🤔💕 どんなふうに見えてるの?といったみなさまの素朴な疑問に、ぜひお答えしたいと思っています。ここでだけでなく、折に触れて。
ここまで読んでくださった方がおられたらですが、長い話にお付き合いくださり、ありがとうございました。
ヘッダー写真は、MY白杖につけているチャームです。でも、まだ白杖を実際に使ったことはありません。慣れない場所に行くときに、半分お守りのように、持っていきます。たたむと折りたたみ傘よりコンパクト。日常的に使う日が来たら、ラインストーン💎のシールを貼って、"デコ白杖"にするつもりです✨
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