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「考える」って何でしょう

こんばんは、前回は「考える」ことを私のnoteのテーマと宣言しました。今回は「考える」って何だろうというテーマでお話させて下さい。

結論から言ってしまえば「考える」とは誰にとっても正しい答えを探す作業のことです。しかし、そんな答えなんて存在するのでしょうか。


生きているのは楽しいですか?この問いについて考えてみます(宗教的なことには一切触れません)。

すると生きていいるのは素晴らしと考える「楽しい」派、それに反対するように「つまらない」派の2つの派閥ができるでしょう。それに加えて「どっちなんだかよくわからない派」の人たちが、いろんな意見があっていいと思いますなんて言っている。

議論は白熱し決着はつきそうにありません。そこである人物が意見を求めらます。なあ、君はどう考えるんだ?

分からない。生きていることが素晴らしいかどうか考えることがどうしてできるのか僕にはわからないんだ。だって僕はまず生きていることがどういうことなのかがわからない。でもそれがわからなければ生きているのが素晴らしいか、つまらないかなんて考えられないだろ?

議論の場は一瞬静まるが、すぐにもとの熱を取り戻し彼の意見はかき消されてしまう。


「楽しい」派も「つまらない」派も意見は対立しているけれども、「生きている」ということは共通している。そして「生きているということに対して自分がそう思っている」ということも共通している。けれども、共通している「生きている」ということに関しては、みんな考えていない。考えないで、自分が思うことを、自分が思うのだから正しいと思って口にしている。だから議論が起こる。


「生きている」って何だろう。ここを考えずに自分の考えを展開してしまう。みんな「生きている」なんて当たり前のことでそれを分かったつもりになっている。みんなにとって正しい答えを探すにはどうするべきだろうか。さっきの不思議な彼がしているように考えなければならない。


これが、「考える」ということです。簡単に言うならば、みんなにとって正しい答えを探すためにも、当たり前を問い直すということかもしれません。


「誰にとっても正しいこと」というのは、「みんなが正しいと思っていること」ではないということも、気づいたのではないでしょうか。世の中の大多数の人は、当たり前のことを当たり前だと思って、わからないことをわからないと思わない。そして「考える」ということをしないから正しくないことを正しいと思っていることがある。


だから私は「考える」。そうやってこれからも生きていこうと思う。次回は生きる、いや「死」について考えてみようかなぁ。


参考:池田晶子『14歳からの哲学 考えるための教科書』


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