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カント法哲学・再論――外的自由の確立へ

「外的自由と普遍的な法原則」

カントによれば、法論は外的自由の義務に関わる。この「外的自由」は、徳論における内的自由の可能性の外的な諸条件であり、この外的自由を権利として主張することは、道徳の自己保存である。

カントによれば、法論については、「汝の選択意志の自由な行使が、誰の自由とも普遍的法則に従って両立できるように外的に行為せよ」という「普遍的な法原則」が妥当する。

わたしは、カントの「普遍的法則」を、基本的に定言命法の「目的自体(人間性)の法式」で理解しており、「汝の人格のうちにもあらゆる他人の人格のうちにもある人間性を、汝がつねに同時に目的として用い、決してたんに手段としてのみ用いないようにせよ」と定式化されるものである。

「普遍的な法原則」は、あらゆる人格にそなわる尊厳性をつねに同時に目的として尊重し、他者の外的自由と両立できるように、自己の外的自由を行使せよ、という要請であると理解している。

「カントのウルピアヌスの三定式」

カントは、ウルピアヌスの三定式を、①正しい人間であれ、②誰にも不正をするな、③各人に各人のものが確保されうる社会へ、他の人々とともに入れ、と再定式化している。

①は、カントによれば、「他の人々にとって自分をたんに手段とすることなく、他の人々に対して同時に目的であれ」と表現でき、自己の「人間性の権利」に基づく拘束性と説明している。「人間性の権利」は、自分自身に対する義務であり、積極的には、道徳的完成を命じる義務、消極的には、自己保存に反することを禁じる義務である。

人間性の権利は、法的人格として振る舞うべきだと命じる内的義務であるが、法的人格間の外的相互行為では、他者の外的自由を尊重すること、すなわち、②「誰にも不正をするな」という「法の法則」が妥当する。

③は、カントにおいては、「公法の要請」としても求められるものであり、潜在的な暴力に対する保障がなく、このような意味で「無法」状態にとどまることは「最高度の不正」であるから、すべての他の人々との避けられない共存の関係において、法的=市民的状態へ、つまり配分の正義の状態へ移行すべきであるという義務が要請される。

「配分の正義」については、改めて取り上げる。

「法的=市民的状態への移行義務」

カントは、法論の基礎は、「自己立法への服従」であり、外的な統治者による外的立法・実定法の立法も、「万人の普遍的な統合意志」という概念によって、市民を公共体の共同立法者として擬制している。

それは、万人の普遍的な統合意志を、つねに正しく公共の利益を追求すべき、法的立法の理念として、位置づけるものであろう。カントは、「真の共和制は人民の代表制」であると述べており、「代表制によって、人民の名において、すべての国家市民が統合されて、自分たちの代表者(代議士)を通じて、人民の権利が守られる」という。

また、カントは法廷による「外的自由」の確定およびその執行を重視しているが、このことは「法的=市民的状態への移行義務」が「公法の要請」であったことから理解できる。そこには、紛争の平和的解決における「司法的解決」の意義・必要性が見てとれるだろう。

カントによれば、配分の正義は、「何が、どのような法廷での判決が、個別の事例において所与の法則に照らして合法か」を判定するとされる。この法廷の判決を執行しうる強制力を持つ共同体の意志が、市民の人格における法的自由の確保、先ず社会における共存・共生の関係の確立を優先事項として、義務づけられている、と考える。

そこには、定言命法の「目的自体の方式」の尊重が、手段に対する制約として、求められる。理念と現実は異なる。その狭間で、各自、良心に語る規範に従うべし。

田中成明『カントにおける法と道徳と政治』

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