MBTI(16タイプ)の便利なところ・気を付けたいところ
賛否両論あるMBTI。自分なりに考えたいい点とダメな点について。
便利なところ:性格を「定型表現」できる
MBTIの便利なところはなんといっても人の性格傾向を定型表現できるところだだろう。「性格」というきわめて曖昧かつ主観的な要素を、それを知ってさえいれば誰にでも通じる一般的表現で言い表せるのはとても便利だ。
これを利用すればセルフケアのみならず、コミュニケーションやマーケティング、人事業務などの諸領域における情報の解像度が一段増すだろう。
ただしMBTIはある意味では劇薬で、ちゃんと使えば有益だがそれゆえ使いこなすが難しいツールといえる。今回はそんなMBTIの便利なところ、気を付けたいところを例を用いて紹介していきたいと思う。
「優しい人」ってどんな人?
たとえば身近に「優しい人」がいたとして、その人がどう優しいのか、どこが素晴らしいのかを言葉で的確に伝えるのはなかなか大変だ。
細やかな気配りや気遣い、すべてを受け入れる包容力、異なる価値観を認める寛大さ、手を差し伸べて支える心優しさ、時には厳しく叱る教育性、けれども絶対に見捨てない暖かさ、父さんが残した熱い想い、母さんがくれたあのまなざし、いずれもすべて「優しさ」だろう。
否、すべて「優しさ」になってしまう。人間は優しさに包まれすぎている。
なので「どう優しいのか」という説明が必要になる。それが隣のお姉さん的優しさなのか、カーチャン的なのか、兄貴的なのかという形容詞が付くのだが、これというピンポイントな表現が浮かばないことも多い。
MBTIはとりあえずタイプを表示しておけばどんな感じの「優しい」なのかを勝手に向こうが想像してくれる、という雑な便利さはあると思う。
マンセル表色系・RGB表色系
筆者がMBTIに近いと思った概念モデルがマンセル表色系とRGB表色系だ。これは「色」という普段我々が主観的に取得する感覚情報を、客観的に表現できないかという試みから生まれたものだ。ファッションやアート、デザインや印刷、出版業界だと割と馴染みが深いと思われる。
色情報は「色相」「明度」「彩度」の三要素によって定義されているのだが、いずれも色を系統的に整理し、三要素を尺度化して、数値や記号を用いることで正確に表示することを目的としている。
たとえばblue(ブルー)という色があった場合、主観表現の場合、普通の青、紺色、水色、青緑と解釈が生まれてしまい、達意でない。そもそも「普通の青」って何だよって問題が生じる。こうなるとデザインやファッション、印刷業界では困ったことになり、仕事にならない。
しかしマンセルなら5B、RGBなら#0000FFという数値に基づいた客観的な表現をすれば、それは誰がどう見ても「純色として青」を意味することなり、解釈の余地は生じず、達意な表現となる。
「優しい人」を類型する
MBTIは完全ではないにせよこれに近い機能がある。「優しい人」という表現をISFJ、ENFJ、INFJ、INFP、ENFPあたりに言い換えると、MBTIの概念を知っている人の間からは表現の解像度が高まるのである。INFJとENFPの優しさはベクトルが異なるからだ。
例えば筆者はこのnoteアカウントにINFJを自称しているが、そうすると「ああこの人INFJね」と認識してもらえる。そして「INFJ=優しいヤツ」で通っているらしいので都合がいい。
しかも「INFJ的な優しさ」が何なのかというところまで伝わるので、いちいちこちらから「私は優しい人間です。その根拠は…」と説明しなくても良い。これはスゲー楽だ。
逆にINFJと思われたくない場合、優しいヤツだと思われたくない場合はINFJということを表示しなければいい。どちらにしろ楽だ。
便利なところ2:タイプを推論する楽しみ
またMBTIは数学・自然科学的アプローチによらない理念系ではあるものの、一応体系的に整理された理論の形を取っているので、考察・推論をする楽しみがある。これは特にN型やF型の性格タイプの人が、のめり込みやすい理由にもなっている。
たとえば女子会で、親友や彼氏の話が出たときに「あの人すっごいやさしいの!」とプッシュされたときに、その一言で人間像を把握することは難しい。非言語的情報によるコミュニケーションを得意とするSeユーザーやFiユーザーならともかく、普通の人では生の感情や情熱に共感することは難しいからだ。そこでとりあえず深堀りすることになるのだが、、
しかしこう言っちゃなんだが、友達の親友=ただの他人であり、知人の彼氏=ただの他人にすぎない。ぶっちゃけただのノロケだ。なので人によっては「フーン」で終わってしまい興味自体が湧きにくいこともあると思う。でもテキトーに流すのも不興を買ってしまうのでなかなかしんどい(筆者は男なのでこの辺事情はしらん)
この点MBTIをかじっていると、直接面識のないただの他人でも性格パターンや行動特性を考察してその人間像を把握する、という遊びを脳内で行うことができる。目的性や生産性のない共感ベースの会話に付き合うのが苦手な人でも、報酬を足すことでヒマをつぶしやすくなるのだ。
ビジネス領域での利用
またMBTIは当然ながらビジネスに転用もできる。たとえばマネジメントやチームビルディングといった領域はもちろんのこと、マーケティングや人事業務でペルソナ設定をする場合などだ。「できる」ということは「当然もうされている」と考えるべきだ。
就職活動で考えると、優秀な採用担当者はMBTIを当然に知っていて、それを前提とした思考・判断を行う。逆に人事で知らないのは不自然だし、もしそんな人事がいたら無能だろう。そのため求職者がMBTIを知っていればこの部分でに関しては対等に戦えるし、むしろその優秀さを利用・誘導できる。
逆に「求職者がMBTIを知っているかどうかわからない」という状況は、採用担当者にとっては不利であり、これは利用できる。その明示をしないまま、あるいは知らないフリをして採用担当者の意に沿う回答を行うことは、求職者にとって有利に働く可能性が高い。だからやったほうがいい。
没個性化という安心感
自身を変わり者と自覚し、他人や周りとの「違い」に悩む人もいるだろう。当たり前のことができない、空気が読めない、共感できる人がいない、理解者がいない……諸々の悩みと孤独の中で現代人は生きている。筆者もこれには相当悩んで苦しんで生きていた。
この手の人間がMBTIを知ると、その悩みや苦しみが軽減されるケースが多い。理由はコレを知ることで自分は「特別な存在」でもなんでもなく、パターン化された量産型一般人にすぎないと気付くからだ。つまり先例や対処法、ロールモデルが見つかるのである。
世の中的に極端な人ほどやった方がいいという話はこの記事で書いている。
ダメなところ:人によって定義がブレる
ただしMBTIは問題点もある。「性格」という主観的でありつつ、しかも抽象的な概念を定型化しているので色々と無理が生じるのだ。そのため解釈がどうしてもぶれやすい点はあるだろう。
「blueさんはINFJ」「INFJは優しい」⇒「blueさんは優しい」
という謎論理があったとして、「INFJ」という概念自体がどうにもぐらぐらなのだ。「コイツ本当にINFJか?」という疑問は自他共に常に付きまとう。そうなれば「優しい」の部分も当然危うくなる。またINFJ=優しいという部分も冷静に考えれば「ほんとぉ?」となるため、そうなると類型論自体が成り立たなくなってしまう。
そもそも自分の解釈を入れていいのかもわからない。筆者は公式本やサイトを読んでも味(書き手の感情)が感じられず頭に入ってこなかった。そのため公式本の記述をリスペクトしつつも、主観(自身の解釈や経験)を多少入れてデフォルメして喋ってしまっている。筆者の知能では主観や事例、比喩や言い換え表現を入れないとうまく伝えられないからだ。
本当はダメなのだが、確度が高いものは言い切り表現も使ってしまうこともある。すべての文章に「~かもしれない」「~と思う」「~の可能性がある」を使ってしまうと煩雑で読みづらくなってしまうからだ。そこは察してもらう必要があるかもしれない。
しかしそのスタンスは熱心なMBTI原理主義者や、MBTI警察からみればアウトの可能性は高い。いい加減なこと言うんじゃないよ、と。
MBTIの解釈イメージの獲得は時間がかかる
またMBTIの16タイプと8つの心理機能は明確にイメージできるようになるにはある程度の時間がかかる。解説本やサイトを複数読み比べ、セッションやコミュニケーションを行って自身の認識と正しい認識のギャップを埋める必要もある。
筆者はこんな感じで自分なりの理解とイメージは持っているつもりだが、それでも3年はかかった。
しかしそれでもなお半信半疑でいる。自分の認識が正しいのかということもさることながら、8つの心理機能の対偶関係(Se-Ni、Ne-si、Te-Fi、Fe-Ti)が「なぜ対偶なのか」という前提部分はまだ納得まで至っていない。科学的根拠もなく「ホントかよ」の範疇を出ない。
けれども便利なのは事実なので利用しない手はないし、エンタメとして面白く実際役にも立つので、細かい部分はグレーにしつつ大らかに楽しむのが正解と思っている。そしてMBTIは西暦2024年時点の人類にとっての便利なツールであって、新しい概念が発明されたらそちらに乗り換えてもいいとさえ思っている。
本来人の性格というのは専門の医者や国家資格者が扱うべきデリケートなものなのだ。エンタメ要素もあろうが、そのくらいの慎重さはきっと必要なのだろう。
16タイプ性格診断の場合
16タイプ性格診断の場合はもっと極端で、「質問の回答に応じてタイプが決まる」という強引なやり方をしているため、かなり雑なタイプ分けになってしまう。もし仮に自身がINFJというタイプが「診断」されたとして、
E(49%)I(51%)⇒ I(内向型)
S(49%)N(51%)⇒ N(直観型)
T(49%)F(51%)⇒ F(感情型)
J(51%)P(49%)⇒ J(判断型)
⇒あなたは提唱者(INFJです)
いやいやいやいや そうはならんやろ!
次受けたらこんなん絶対変わるやん!ハリー〇ッターの組み分け帽子で「薩摩藩!」って言われたくらい全然しっくりこねーよ!燃やすぞ!
となるので、16タイプは個人的には懐疑的だ。
けれどもみんなで楽しめればそれが一番だし、それが流行ること自体が一種のトレンド・世の中の選択なので否定するつもりも全くない。ただ自分はこれ(49%)に対する有効な反論というか、折り合いの付け方が単純に思いつかなかった。
この手のものは結局、外に答えを求めても見つからず、自らの内に見出すしかないのかもしれないと思っている。MBTIも「タイプ診断」はせず、そういうスタンスを取っているようだ。
ダメなところ2:距離感が難しい
MBTIは抽象的概念である。そのためINFJという概念を見たり触ったりすることはできない。また「INFJの人」が街を歩いていたとして、その人を実際に見たり話したり触ったりすることはできても、そいつが本当にINFJだという証明はどこにもない。「100%本物のINFJ」はおそらくどこにもいない。
というわけで、MBTIとうまく付き合うには「抽象」と「具体」のスケールをある程度行ったり来たりする必要があるため、うまい距離感で付き合うのには慣れが要る。遠いと見えないし近すぎてもピントが合わないのだ。
ここはぶっちゃけセンスもあって、N型(直観型)が惹かれやすいのはこのあたりもあると思う。そしてそれ自体がタイプの存在を暗に示してしまっている。
「INFJなら絶対に優しい」「INFJは親切に決まっている」
これはちょっと近すぎである。自身もうっかり言い切り表現を使ってしまうことはあるが、MBTIはあくまで一般的傾向にすぎず、タイプに該当する個人すべてに必ず当てはまるわけではない。しかし「具体」のスケールが強い人は原理主義的傾向が強く、そう受け取ってしまう人もいる。
また反対に「優しくない人はINFJじゃない」「親切でないINFJなどあり得ない」ともならない。MBTIに絶対はない。なぜならそれは一般的傾向にすぎず、個人レベルや外れ値や例外は想定しうるからだ。
「タイプで決めつけるのは良くない」「そんなの人による」
これは上記とは逆で少し遠過ぎである。類型論である以上決めつけは前提なのだ。よって類型論という考え方自体が馴染まない人の可能性がある。これも「具体」のスケールが強い人はそう受け取ってしまう人がいる。
やはりMBTIは一般的傾向であるというルールを忘れている。「Seが強いINFJ」は確かにいるかもしれない。よく探せばいるんだろうけれども、それはあくまで例外であり外れ値だ。一般的傾向ではINFJにとってのSeは劣勢機能であるとみなされる。その前提は守らないと理論が成立しない。
上の話と合わせると一見矛盾しているようだが、していない。決めつけすぎてもよくないし、逆に決めつけを全否定するのもよくないという話なのである。MBTIはその微妙な距離感でピントが合うようになっている。ゆえに距離感の取り方が難しい。
まとめ
以上のようにMBTIは便利である反面、その扱い方が難しいツールとなる。人によって定義や意味がブレやすく、また距離感が難しい。そのため情報が錯綜しやすく、ある程度の解釈やイメージを得るには時間がかかってしまう。
筆者もそれは同じで、ネット掲示板やwikiなどでそれなりに議論はしたし、これによって自身のイメージと、一般的理解とのすり合わせは常に行ってきた。体系化して言語化できるようになるまでには数年かかったし、それでも厳密な定義に照らせば間違ったところはかなりあるだろう。
ただしMBTIは「学問」でなくあくまで「ツール」であるので、どちらかというと「共有知」に近い概念と考えている。筆者的には、完璧な理解が絶対に必要かといわれればそれはノーで、あくまで自分の人生に役に立てばそれでいいんじゃないかと思う。
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