中央構造線上にある大鹿村に行ってきた。
夏の暑い盛り、大鹿村までドライブしてきた。
ごらんの通り山に囲まれている村だ。左側の山が内帯といわれる地層で右側の山が外帯といわれる地層だ。それぞれ違う時期に出来た地層。この二つの地層のぶつかって出来た断層が中央構造線。そしてそれに沿って小渋川という川が流れ、川の周辺に大鹿村ができた。
中央構造線上の村ということで、「大鹿村中央構造線博物館」がある。写真のとおり、博物館の前には岩、岩、岩。様々な岩がならんでいる。中に入ると中央構造線についての詳細な資料が展示されている。博物館付近には断層が見られる露頭がいくつかある。個人的には露頭にいったあとに博物館に来るのがいいと思う。
なにぶん山奥だ。中川村の方面から車でやってきたが、途中で聴いていたラジコが何回か途絶えた。そんな人里離れた土地だから、南北朝時代に後醍醐天皇の息子である宗良親王が落ちのびたりしている。
宗良親王が大鹿村で詠んだ和歌だそうだ。それは、京都と比べれば山が近く、空が狭いとは思う。
そんな雅な方が来られていたからだろうか、大鹿村は江戸時代から神社の演目として歌舞伎が行われていた。今でも年二回程度、定期公演が行っているなど、村を歌舞伎の里として盛り上げている。
村には松下家住宅という江戸時代末期に建てられた民家が保存されている。民家と言っても大地主のお屋敷だ。ガイドさんの丁寧な解説によると、内装にはこだわりがあるよう。趣のある人がこの家を作ったのだろう。
旧宅は小渋川からかなり上がったところにあった。ここのガイドさん曰く、小渋川は水量が多いため水害も多く、稲作はできなかったそう。そのため、林業や畑作を高いところで行っていた歴史がありそうだとのこと。だから名主筋も高いところに住んでいたんだそうだ。
水害は近年にも起こっている。昭和36年の梅雨に降った大雨によって大鹿村にある大西山という山が山体崩壊をおこし42名の方がなくなった。この他にも伊那谷ではこの大雨によって様々な被害が起こった。この大雨による災害のことを発生した年にちなんで「三六災害」と呼んでいる。
なお、崩壊したあとの土地は公園として整備されて桜の名所となっているそうだ。あわせてその公園には大きな観音像が建立されれている。