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沢木耕太郎さん出演のラジオを聴いて小説「深夜特急」のワンシーンを思い出す。

現在TBSラジオで小説「深夜特急」のラジオドラマ番組が現在放送されているため、日曜サンデーにその著者である沢木耕太郎さんが出演していた。

テレビ朝日でドラマ化されたものを見て、私もこの小説を読んだ記憶がある。とても疾走感があって面白かったが、どこかに切なさのようなものも感じた。高校の国語の授業で好きな本をあげろと言われて、この本をあげたのを覚えている。もちろんおすすめだ。

この本を読んでどこかに旅に出てしまった男が何人もいると、ラジオ番組で太田さんと沢木さんが語っていた。太田さんは「罪深い本」と冗談めかして揶揄していた。

ラジオの中で沢木さんが「旅」について語っていた。「旅」することによって旅先のすべてを理解することなんてできない。が、「旅」によって得ることができた異なる「ものさし」を使ってみることで、「旅」をしなかった人生より豊かに生きていくことが出来ると、沢木さんは「旅」する人生を勧めていた。

また、番組の中で太田さんが『テロルの決算』にふれ、中国よりの浅沼稲次郎を殺害した山口二矢のことを沢木さんに質問されていた。

山口の思いは日本の赤化を防ごうとしたことだけれど、結局その後、共和党のニクソンが中国に行き、自民党によって日中国交回復がなされ、彼の思いとは真逆なことがこの世界に起きた。個人が起こしたことなんてあざ笑うかのように世界は動いていくので、個人が時代を変えてやろうということは「空しい」ことじゃないかと思うと。

どんな人のどんな行為だって後世の人から見れば、ほぼほぼ「空しい」行為だろう。後世の評価を期待することも「空しい」。だからそのような評価を求めるよりは、後世から見れば「空しい」行為だといわれたとしても、その人がその存在を賭けて真剣な思いで行ったことであれば、「それでいい」ことなんだと思うと沢木さんは語っていた。

そういえば、「深夜特急」でこんなシーンがある。旅が終わりに近づき、地中海の船の上でその寂しさをウィスキーで紛らさせようとするのだが、急に飲んでいることが空しくなり、飲んでいたウィスキーを海に注ぎ込む。そしてある夭折した中国詩人李賀の詩の一節を思い出す。

僕は泡立つ海に黄金色の液体を注ぎ込んだのです。

飛光飛光
勸爾一杯酒 

二十七歳で自身を滅ぼすことのできた唐代の詩人、李賀がこう詠んだのではなかったか。飛光よ、飛光よ、汝に一杯の酒をすすめん、と。その時、僕もまた、過ぎ去っていく刻へ一杯の酒をすすめようとしていたのかもしれません。

沢木耕太郎. 深夜特急5―トルコ・ギリシャ・地中海―(新潮文庫)

李賀が描いたこの「飛光」っていうのは何だろうか。それは、個人のどんな思いをもあざ笑うような「歴史」のことに思えた。人の一生を空しいものとあざ笑うような「歴史」。そんな「歴史」に李賀はかすかな抵抗として一杯の酒を勧めた。そんな風に沢木さんと太田さんのラジオを聴いて思った。李賀の詩は次のように続く。

吾不識青天高
黄地厚
唯見月寒日暖
来煎人壽
食熊則肥
食蛙則痩

〈意味〉
私は知らぬ、青空の高いことも、黄色い大地の厚いことも。ただ目にするのは、月は寒く日は暖かく、代わる代わるめぐってきては人の命を縮め、熊を食えば肥え、蛙を食えば痩せ、ということだけ。

http://mimoronoteikoku.blog.shinobi.jp/Entry/536/

人の一生の中で知ることが出来ることはたかがしれている。そして、大きな「歴史」の中で大概が「空しい」ものなかものしれない。けれど、それぞれが迷いながら真剣に生きていく旅路というものは、オリジナルでかけがえないものであって、「それでいい」ものなんだろう。きっと、そんな哲学が「深夜特急」には流れている。


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