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『人生論ノート』 ー仮説についてー

あなたにとって怖いものは何でしょうか? おばけ? 父親? 雷? 秘密がばれてしますこと? いろいろあると思います。

将棋年鑑という雑誌の中で羽生九段が世の中で一番怖いものはなんですか?というアンケートの問いの回答は「常識」だそうです。

私のようなものからは、いやーなかなか出てきません。ちょっと常識外な回答だと思います。

さて、今回は仮説についてです。三木は思想にはつねに仮説的なものを基盤にしているといっています。

生活は事実である、どこまでも経験的である。それに対して思想はつねに仮説的なところがある。(中略)思想はその仮説の大いさに従って偉大である。
                     人生論ノート 仮説について

人間の思考が仮説的なものであるのは、考えや思考が確実なものから生まれているのではなく、不確実なものから生まれているからです。

すべて確実なものは不確実なものから出てくるのであって、その逆でないことは、深く考うべきことである。つまり確実なものは与えられたものでなくて、形成されたものであり、仮説はこの形成力である。認識は模写でなくて形成である。精神は芸術家であり、鏡ではない。
                     人生論ノート 仮説について

万有引力の法則も相対性理論も目には見えない不確実なモデルが仮説として提唱され、それを実証的に検証されたことで、それが正しいと認められるようになったのです。しかし、これらの理論を裏付けるために、また新たなモデルを自然科学者たちは探求するのです。

しかし思想のみが仮説的であって、人生は仮説的でないのであろうか。人生も或る仮説的である。それが仮説的であるのは、それが虚無に繋がるためである。各人はいわば一つの仮説を証明するために生きている。
                     人生論ノート 仮説について

同様に生きる意味も目に見えて示されていなません。しかしそれがゆえに、私たちは生きる意味を自由に打ち立てることができます。ただし、仮説は仮説のままでは、確実なものにはなりません。それを人生の中で実証していくことで自分の人生の意味を確実なものにしていくことができるのです。

同時に私は仮説のような不確かなものを頼って生きることは、非常に勇気が必要なのではないかと思います。

さて、三木はここから常識についてもここで論じています。

常識を思想から区別する最も重要な特徴は、常識には仮説的なところがないということである。

常識は既にある信仰である、これに反して思想は信念にならねばならぬ。
                     人生論ノート 仮説について

常識は確実なものではあるかもしれませんが、新しいものを生み出す力に欠けます。不確実な思想こそが新しいなにかを生み出す力になるのです。

すべての思想らしい思想はつねに極端なところをもっている。なぜならそれは仮説の追求であるから。これに対して常識の持っている大きな徳は中庸ということである。
                     人生論ノート 仮説について

足して2でわるという言葉は日本人には好まれる言葉です。その言葉を借りれば常識は無数の人の思想を足して無数で割ったものというようなものになるかもしれません。そのような性質があるので、確実ではあるのかもしれません。また、考えずに確かな行動の規範を与えてくれるためすがりやすいものであるかもしれません。

折衷主義が思想として無力であるのは、そこでは仮説の純粋さが失われるためである。それは好むと好まないとに拘わらず常識に近づく、常識には仮説的なところがないのである。
                    人生論ノート 仮説について

しかしそんな常識はあなたにとって本当に真理かと問われると、あなたにとってはなんら意味のないもののかもしれません。あなたにとってなんら意味のない常識にとらわれて生きることはすごく虚無的なことです。一つの仮説を証明するために生きることは、そんな虚無的な人生から解放される方法だとこの章は言っているのだと思います。

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