『昔話と日本人の心』ーうぐいすの里ー

『昔話と日本人の心』は100分de名著河合隼雄スペシャルの第3回で紹介されていた本です。河合隼雄はヨーロッパでユング心理学を学び実際の臨床に応用しようとしましたが、日本人になかなかうまく応用がききません。河合隼雄は日本人の自我像と西洋人の自我像は異なるもではないかと考え、古くから伝わる昔話の中に日本人の自我が現れるのではないかと考え、まとめたのがこの本です。


『昔話と日本人の心』では9作の日本の昔話があげられており、その中の登場人物や物語の内容から、西洋の類似の昔話との相違点、あるいはユング心理学を用いた考察により、西洋人の自我像には当てはまらない日本人の自我像を論じています。今回は、本の冒頭で挙げられている「うぐいすの里」について紹介をしたいと思います。

昔、ある山のふもとにきこりが住んでいました。ある日山の中に入っていくと見慣れない立派な館がありました。玄関に出ると一人の美しい娘が出てきました。やりとりをかわすなかで美しい娘は男を誠実な男だと思い「次の座敷をのぞいてくれるな」と言い残し留守番を頼みます
しかし、女が出て行ったあと、きこりは次の座敷から美しい匂いがするので、次々とふすまを開けてしまいました。それそれの座敷はとても美しく7番目の座敷には酒も用意されていたため、きこりは酔ってしまいました。7番目の座敷には3つの小さな卵がありました。きこりはなにげなしにとってみたのですがそのすべてをわってしまいました。
そのとき女が帰ってきてさめざめと泣き出し「人間ほどあてにならぬものはない、あなたは私の3人の子供を殺してしまった。娘が恋しい。ほほほけきょ」と鳴いて、一羽のうぐいすになってとんでいきました。きこりが気が付くと立派な館はすでになく、ただぼんやりとたっていました。

うぐいすの里の要約です。100分de名著MCの伊集院さんの言葉を借りれば「何にもおこんねーじゃねーか」というような話。西洋の昔話で類似のもの(紹介されていた昔話は青ヒゲという話)については、禁を破るのは女性です、禁を破ったことにより男性に追われますが解放され、最終的には他の男性と結婚に至ります。西洋の話は結婚で終わるものが多く、日本の話は結婚しないという結末が多いそうです。結婚は西洋では人格の統合を象徴的に示すものだそうです。獲得することが人格的な統合につながるというのは西洋的だと思います。

では、この話では何が起こったのかというと、無が生じたのだといいます。結局きこりがきこりにもどっただけの話ですが、禁を破ることで発生した、突然のプロセスの停止により失われたことによって生じる悲しさや寂しさ、この感情を日本人は「あはれ」となづけました。

「あはれ」は「うらみ」を発生させることがあります。「うらみ」はプロセスの永続性を望み、失われたものへの抵抗として現れます。うぐいすとなった娘もうらみごとを残して去っていきました。河合はこの「うらみ」にこそ我が国の民衆の活力を示しているのではないかといいます。

われわれはこの消え去った女性が、もう一度力を得て日常の世界に再起することさえ、昔話のなかでは期待してよいのではなかろうか。そのような女性像こそ、古来からの我が国の文化の在り方に対して、新しい何かをもたらそうとするはたらきを象徴するものとなると考えられる。
          河合隼雄『昔話と日本人の心』第一章 見るなの座敷

「うらみ」と「あはれ」は裏表との関係と河合はいいます。西洋の話は結婚で表現されるような人格の統合を表現するような形で話が締めくくられるのに対して、日本の話は「浦島太郎」や「鶴のおんがえし」など最終的に結婚はしないような結果的にはじめと何も変わらず物語が終わることが多い。このような話は人格的な統合の代わりに日本人の持つ「あはれ」や「うらみ」という感情を表している。この「あはれ」や「うらみ」の克服が昔話から見る日本人のテーマとなるということになると河合はいいます。

#昔話と日本人の心 #河合隼雄 #100分de名著 #日本論 #うぐいすの里 #あはれ #うらみ #ユング心理学 #人格的な統合