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聖書から愛を学ぶ

キリスト教は「愛の宗教」と呼ばれます。それは神ご自身が「愛そのもの(1ヨハネ4・16)」だからです。世間では「愛」という言葉は、いろいろな意味合いで使われています。聖書の中では「愛」はどのように描かれているでしょうか?

Ascension Presents(アセンション・プリゼンツ) のマイク・シュミッツ神父の動画をご紹介します(早口でおちゃめなMike神父の動画もぜひご覧ください。以下、動画の和訳。動画のリンクは文末)。

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2020年12月20日公開の動画

皆さん、こんにちは。マイク・シュミッツ神父です。アシェンション・・・(噛み)アシェンション・プレゼンシュから、お送りしましゅ(噛み)。
はい、すみません。なんか、クヒの上が・・・口の上の方が・・・

聖書から愛することを学ぶ

マイク・シュミッツ神父です。Ascension Presentsよりお送りします。以前の動画で「愛」についてお話しした際、神様が世界をお造りになった時の話をしました。神様は私たち人類を造り、エデンの園に置かれました。

聖書における世界の創造の物語から、人間は3つの目的のために造られたことが分かります。休むため、働くため、そして愛するためです。しかし、私たちはどの分野においても、自分の「もろさ」を経験しています。

この「もろさ」ですが――、もし創世記のお話をご存知であれば、善である神が世界を善いものとして造り、それを見て「極めてよかった」とおっしゃったこともご存知でしょう。神様は人類――ご自身がお造りになった男と女を見て「極めてよい」とおっしゃったのです。人類は愛のために造られたのです。

しかし私たちは、聖書が創世記第2章で終わらないことを知っています。第3章に続くのです。第3章では、被造物の中でもっとも賢い蛇による誘惑が描かれています。そう、人間の堕罪について書かれています。

堕罪の結果

とても興味深いのは、アダムとイヴが最初の罪をおかした時に、その結果として「呪い」が与えられたことです。蛇への呪いがこのように描かれています。

創世記 3章14節
主なる神は、蛇に向かって言われた。「このようなことをしたお前は、あらゆる家畜、あらゆる野の獣の中で呪われるものとなった。お前は、生涯這いまわり、塵を食らう。」

そして神は、女に向かってこう言われます。

創世記 3章16節
神は女に向かって言われた。「お前のはらみの苦しみを大きなものにする。お前は、苦しんで子を産む。お前は男を求め、彼はお前を支配する。」

神様、めちゃくちゃ怒っているように聞こえますよね? 神様は次に、男にこう言われます。

創世記 3章17~19節
神はアダムに向かって言われた。「お前は女の声に従い、取って食べるなと命じた木から食べた。お前のゆえに、土は呪われるものとなった。お前は、生涯食べ物を得ようと苦しむ。お前に対して土は茨とあざみを生えいでさせる。野の草を食べようとするお前に。お前は顔に汗を流してパンを得る。土に返るときまで。お前がそこから取られた土に。塵にすぎないお前は塵に返る。」

神様が、イライラしているように聞こえませんか? 神様は、男と女に対してかなり憤慨しているようにさえ聞こえます。面白いのは・・・一説によると・・・神様は呪っているわけではないのです。神様は蛇を呪われました。これは悪魔のことです。しかし神は男と女を「呪った」わけではないのです。呪いというよりも、「治療法」を与えられたのです。

神はイヴにおっしゃいます。「お前は、苦しんで子を産む」。アダムには「お前は、生涯食べ物を得ようと苦しむ」とおっしゃいました。これが呪いというより、「治療法」なのです。なぜそう言えるのでしょうか?

アダムとイヴは、愛のために造られました。愛とはなんでしょうか?
愛とは自分を「贈り物」として差し出し、相手の善を願い求めることです。

しかし、彼らは何をしたでしょうか? 蛇が誘惑をした時に、イヴはどうしたでしょうか? A) イヴは神を愛さなかった B)アダムはイヴを愛さなかった、のです。

二人とも互いを信頼しませんでした。自分の保身のことだけ考え、自分のためにだけ選択をし、自分の利益だけを考えていたのです。アダムは、自分の花嫁であるイヴのために立ち上がって、彼女を守ることもできたのに、しませんでした。彼は自分の命を差し出さなかったのです。彼は・・・何もしなかったのです。

イヴは主に助けを求め、父なる神を信頼することもできたのに、彼女はどうしたでしょうか? 彼女はそうしなかったのです。イヴは、その果実から得られる快楽を得たかったのです。自己犠牲をともなわずに。アダムも、自己犠牲なしにその果実を求めたのです。

興味深いことがあります。このリンゴ――リンゴではないですね。聖書に書かれているのが、どんな果実であったにしろ――「これはセックスのことだ」と言う人たちがいます。言っておきますが、これはセックスのことではありません。

しかし興味深いのは、人間がおかす性的な罪のすべては、自己犠牲なしに相手から快楽だけを手に入れようとすることだ、ということです。

例えば、誰かを性的に利用することは、まさにその行為から快楽だけを得ようとすることです。「あなたに、私のすべてを差し上げます。今この瞬間だけではなく、人生が尽きるまで」と言わずに。アダムとイヴは互いに自分を相手への贈り物とするべきだったのに、自分のことにしか関心がなかったのです。この「壊れた」関係に、神はこうおっしゃったのです。

「イヴよ、お前は愛のために造られた。お前が愛のために造られたという事実に変わりはない。しかし問題なのは、お前は愛し方を知らないということだ。お前はそれを学ぶようになる。どのように? お前が心から愛する新しい命を世に生み出す時、苦しむことによって。なぜ? それは、愛することは痛みをともなうということを学ばなければならないから」。

「アダムよ。お前が働き、地から食べ物を得ようとする時――お前の嫌いな仕事、毎朝早起きして、ひどい渋滞の中、長時間通勤して、大変な仕事をし、無理解な上司がいても、同僚がひどい人たちでも・・・お前は一日中、働き続ける。なぜか? アダムよ、お前は愛し方を知らないからだ。愛することは、自分を犠牲にすることだということに気づかなければならない。お前は毎日こうやって働き続けるだろう。妻と子どもたちの必要のために。

このことを通して、お前たち2人は愛を学ぶ。これは「治療法」であり、「呪い」ではない。お前たちを『罰してやりたい』がための呪いではなく、『助けたい』がゆえの治療法」。

神は蛇に呪いを与えるだけでなく、人間に治療法を与えられました。それだけでなく、神は私たちに救い主も約束されました。

これってすごいことですよね。私たちは一人でやっているわけじゃないんですよ。私たちは自分一人の力で聖くなるわけじゃないんです。聖くなるためには、私たちは神様を完全に必要としているのです。

神様ご自身がキリストについて、約束されています。創世記3章15節で、神は蛇にこう言います。

創世記 3章15節
お前と女、お前の子孫と女の子孫の間に、わたしは敵意を置く。彼はお前の頭を砕き、お前は彼のかかとを砕く。

歴史を通して、神学者たちはこれを「Protoevangelium(原福音)」と呼びました。「福音の前の良い知らせ」と。

どういうことかというと、聖書の中で神が人間の堕罪の様子をご覧になったとき――人間の「もろさ」をご覧になったその瞬間に、神はこう約束されたのです。「蛇は呪われよ。しかし私は、お前たちに救い主を与える」。まさにこの瞬間、神は私たちに救い主の約束をし、治療法を与えてくださったのです。

このすぐ後に、何が起きたでしょうか? 人が園を追い出される時――創世記3章21節には、こう書かれています。

創世記 3章21節
主なる神は、アダムと女に皮の衣を作って着せられた。

考えてみましょう。神は皮の衣を作って与えられたのです。毛皮はどこから取ってくるでしょうか? 動物からですよね? 神様がおっしゃりたいのはこういうことかもしれません。

「私は、お前たちを愛そう。しかし、そのためには何かが犠牲にならなければならない。私がお前たちを愛し、皮の衣を与えるためには、何かが死なねばならないのだ。お前たちを愛し守るためには、何かが命を落とさねばならない。

私はお前たちを見捨てたわけではない。呪ったわけでもない。お前たちをこれからも愛そう。しかし、愛には犠牲がともなう。」

神様は、さらにこんなこともしてくださいました。私たちは、聖書で何が起きるかを知っていますよね? Protoevangelium(原福音)がありましたよね。そして、真の福音があります。そこで何が起きたか。

イエス・キリスト――より生まれ、この世に来られた方。彼は何をしたでしょうか? 顔に汗を流して茨とあざみのなかで働いたのです。十字架に架けられたイエスを思い起こしてください。顔に汗を流し、頭とひたいに刺さるの冠をのせられたイエスはこうおっしゃったのです――「愛には犠牲がともなう」。

愛にはもちろん、喜びがあります。愛には、大きな充足感があります。愛には素晴らしい意味があります。しかし真に人を愛するためには、常に大きな犠牲がつきものなのです。

あなたの人生において、赦さなければならない人がいるかも知れません。手を差し伸べないといけない誰かがいるかもしれません。きっと、愛することがとても難しい相手もいるでしょう。そうしなければならない、と頭では分かっていても。

もしかしたら、互いに距離を置かないといけない相手もいるかも知れません。「一緒にいたいけれど、それはできない。健全な関係ではないし、誰のためにもならないから」と。

今日のあなたには、愛することが難しい人はいますか? 愛さなければならないのに。それは誰ですか? あなたは、どのようにその人を愛しますか?

自分の心が傷んでも愛し続けることは、私たちにこうしたことを教えてくれるのです――愛とは「自分を贈り物にすること」、あなた自身が「贈り物になるべき」であること。そもそもあなたは「周りの人のための贈り物として造られたこと」「神への贈り物となるために造られた」ということを。

Ascension Presentsのマイク・シュミッツ神父より、この動画をお届けしました。神様の祝福がありますように!

動画のリンク:Learning How to Love From the Bible



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