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にんじんを残す先生に手紙を書く話


今日、私は豆カレーのドリアを食べていました。その中でふと、「そういえば私って、給食のキーマカレーが苦手だったな」と思ったのです。理由は私の苦手な食べ物であるレーズンが入っていると聞いて、どこにレーズンがあるのだろうかとびくついていたからです。今思えばあれはレンズ豆を聞き間違えていたのではないかと思うのですが。

もうひとつ、思い出したことがあります。
それが道徳だったか国語だったかは思い出せないのですが、「好き嫌いはいけない。残すのはいけない」とされている給食の時間に先生がにんじんをティッシュにもどして残しているのを生徒が見てしまい、「この先生に手紙を書きます。どういったことを伝えますか」という趣旨の話だったと思います。
授業で直接とりあげられることはありませんでしたが、私は当時から「人に食べろと言いながら自分は残すのは勝手ではないかな」と感じていました。しかし、今の自分だからこそ考えられることもあるのではないかと思い、ここに残しておくことにします。


以前の記事で少し話したのですが、私の祖父は「戦争で食べられるものがなかったんだ」と好き嫌いや食べ残しを悪として私に教えてきました。私は戦争という特殊な状況下で生存するためには好き嫌いなんて言ってられないことは重々理解していたため反論はしませんでしたが、「現代の食文化とは異なるのではないか」と感じていました。
現代において食事とは、生存に必要な行為であると同時に安らぎや楽しみを見出すものではないかと私は考えています。「嫌いな食べ物を苦しみながら食べる」というよりは、「その食べ物をどう調理すれば美味しくいただけるのか」「その食べ物の栄養を代わりにどの食べ物で摂取するのか」を考える方が大事なのではないかと思うのです。


その先生はにんじんを食べられるようになろうと努力したことはあるのでしょうか?それともどうしても食べられない食材だったのでしょうか?それによって彼の印象は大きく異なります。私の考えでは、現代の食事において「特定のものを食べない」のはそこまで悪ではありません。しかし、「食わず嫌い」となると話は別です。その食べ物のことをよく知ろうとせずにダメな食べ物と認識するのは良い行為とは言い難いでしょう。

また、そのクラスが「残さず食べよう」としていたのはどうしてでしょうか。学校全体の方針でしょうか、それとも先生の教育に関する方針でしょうか?
「食べられないものがある」先生であるならば、「食べ物を克服する方法」「克服できなかったときの考え方」「食べ物を無駄にしないとはどういうことなのか」など、その先生だからこそ子供に教えられることがあるのではないでしょうか。先生のティッシュに戻したそのにんじんは、もしかしたら食べたい子がいたかもしれません。にんじんが好きな子、もっとおかずが欲しい子、その子たちの食べられたものが、先生の隠しごとによってゴミになってしまうのは果たして正しい教育なのでしょうか?


私はどうしても苦手な食べ物があります。しかし、自炊をするようになってから美味しいと感じるようになった食べ物もあります。
子供が出来たら、私はその子に何を教えましょうか。好き嫌いはないに越したことはないけれど、どうしても食べられないものがあったら?食卓に出てきたらそのときはどうしようか?

そんなことを伝えられたらいいなぁとぼんやり思いながら、私はかつて苦手であったキーマカレーを綺麗にさらって、ご馳走様とお店を出たのでした。


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