守り方にも2通りある
石橋を叩いておきながら、渡らない。
人の顔色を伺いすぎる。
これはまさに、私のことである。
これをしたらどうだろうか?
安全か?不安要素はないのか?
完全にマイナス面を払拭できてから行くべきではないのか?
これを今すると周りはどう思うだろうか?
私がこう発言したら、どう感じるだろうか?
なんかコイツはなかなか厄介だとか思われてないだろうか?
書いててつくづく面倒くさい奴だと思うし、そんなの気にするなよ!と背中をバンと叩きたくなるのだが、
当事者ともなると、そうもいかない。
事前準備から不安が募りすぎる、ということがどうも"デフォルト"のようだ。
だから、非常に疲れる。
いろいろな周りのことや状況、心象を考えているから。
しかも、厄介なのは、そんなに周りのことを気にしていながら、決して客観的に俯瞰して見られているわけでは決してない。
あくまで、私の頭の中での勝手な想像に過ぎないのだ。
◆
先日仕事に行って、どっと疲れて帰ってきた。
まさに帰宅後は、何もしたくない放心状態になった。
あまりにも色んなことを事前に考えを巡らせすぎて、精神的に気疲れしてしまったのだった。
一緒に働いている仲間は、もっと上手くやっている。多分そこまでエネルギーが枯渇することなく、仕事をやり遂げている。
なんで私だけ、こんなに消耗してしまうのか。
これは、色んな外部との関わりを、かなり固い守りに入り、防御しまくってきた結果ではないのか?
まさに、自分を殺している。
息をするのも音を立てぬように。
でも、守りにももう一つ方法があるように思った。
イチローさんのこの動画を見ていて思ったのだ。
単に、自分が他人からどう見られてるか不安であるとか、どう思われてるんだろう?と怯えるだけでは、虚像を見ていることになる。事実を見ていない。
でもイチローさんは、逆に自分がどう見られたいか?相手からどう判断してもらいたいか?を考えて行動している。
何から何まで、自分という存在を消すほどに固く閉じこもるのではなく、考える。
それを考えた上で、攻めながら守る。
そんな答えをもらってような気がした。
この後者の守り方、私も少しずつでいいから実践していきたい。
おまけ: VR(バーチャルリアリティ)でたとえば歴史上で偉大な発明をした人物や、賢いと言われている人物のアバターを自分の分身として設定して、テストで問題を解くというようなことをしたとき、そのようなアバターを設定していない時と、偉大な人物のアバターを着て、それになりきった時とでは、点数が後者の方が高かったという報告があるとNHKの番組でやっていた。
つまりは勝手に自分というものに限界や制限を掛けているのは、他ならぬ自分だということだ、と。
この姿形で私という人物が生きて生活していて、勝手に色んな設定を自分の中でしてしまっているのかもしれない。
私は石橋を叩いて渡らない人だ。
私は人の顔色を伺いすぎる人だ。
というふうに。
思考と身体とか分離することはありえないし難しいけれど、勝手に設定したその条件で勝手に自分が苦しんでいるのだ。
誰かこうなりたいと思える憧れの人物の仕草、格好、態度を取り入れてみる、胸を張ってみる、わざとどしどしと歩いてみる、など外部の設定を変えたら何か思考も変わってくるのかもしれない。
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