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小山龍介講演|アートがひらくビジネスモデル

今日最後の講演になりました。一日の講演の整理になれば、と思っています。[注1]タイトルは「アートがひらくビジネスモデル」。オリンピアのテーマは「アートがひらくイノベーション」。一般社団法人ビジネスモデルイノベーション協会として、「ビジネスモデルをどこに位置づけるのか」をお話ししたいと思います。

建築物から労働の喜びを見出したジョン・ラスキン

まずは、ひとりの人物からスタートしたいと思います。2000年ごろから注目されている、もともとは美術評論家で、いまは経済学者として、また、哲学者として再評価されたりしているジョン・ラスキンという人です。

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John Ruskin 1819-1900

ジョン・ラスキンは、ターナーという風景画家の絵を「すごくいい」と評価しました。この絵は世間では酷評されていたので、彼は「そんなはずはない」と、高校生の頃からメモを書きためてそれを世に発表するんですね。それで、美術評論家として大成功、名声を得るんです。

そのジョン・ラスキンがターナーの絵を見て本を書いたあと、ヴェネツィアに行くんです。みなさんご存じのとおり、ヴェネツィアは水の都。水路を舟に乗って古い町並みの間を行く。そのヴェネツィアで、この大きなすごい分厚い『ヴェネツィアの石』という本を書きます。

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『ヴェネツィアの石: 建築・装飾とゴシック精神 』ジョン ラスキン (著), John Ruskin (原著), 内藤 史朗 (翻訳) 法藏館 (2006/10/20)

「建築・装飾とゴシック精神」というサブタイトルがついていますが、ラスキンはヴェネツィアで発見した装飾を、カメラではなく写実、絵を描いて残しています。「いろいろな装飾がある」「なんか、どんどん、どんどん、おどろおどろしいものになっていく」と。

もともとゴシックというのは「ゴート風な」という意味で、ゴート族という荒ぶる民族たちが、すごく調和のないゲテモノのようなデザインをする、というような意味です。ゴスロリというと、みなさんわかりますね、ちょっとファッションとしてはどうかと思うような、まぁ「ロリータ」がついているので「少女風な」ということなんですけど、「ちょっと歪な」ということなんですよ。ラスキンはヴェネツィアの建築物や装飾を見て、「かなり歪だな」と思いました。ところが、一方で、「なかなか悪くないな、いいんじゃないか」と思ったんですね。どんなふうにいいかというと、「ゴシック建築には、下層階級の人々の労働の結果を包摂し、不完全さに満ち、しかもいたるところに、その不完全さをあらわにした断片から荘厳にして非の打ちどころのない全体を大らかに建立する創造物としての強さ、不思議さがある」と言っています。

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ゴシック建築 出典:『ヴェネツィアの石』ジョン・ラスキン(著)、井上義夫 (編集、 その他、 翻訳)、みすず書房 (2019/3/16)

(言葉を選ばずに言うと)デザインや彫刻の知識があるわけではない職人たちが、親方から「こうやってつくれ」と言われて、それを真似しながらつくった。でも、ちょっと気分が乗ってくるわけです。それで、「お、ちょっとこれ、工夫してみよう」と、創意工夫してつくったもの。全体では不完全のように見えるけれど、「美と生命の自由にはばたく荒々しくも新鮮な均整を本質とする」「そこには機械の画一性はなく労働の喜びがある」とも書かれています。

ちょうどこの頃のイギリスは、産業革命が起こって、労働が機械に取って代わられようとしている。どんどん、どんどん、人間がやっていた労働を機械に置き換えて、効率重視で人間が機械のように働かされる、ということになっていたんですね。これはちょうどいまのこの時代にもぴったりなわけです。AIが登場して、仕事が全部AIに取って代わられて、「じゃあ、人間は何をすればいいんだ」と。

産業革命の時代、ラスキンはこのゴシック建築を見て、「ああ、ここには労働の喜びがある。こんなふうに働いていかないといけない」と感じ、その後、文化財の保護、また、文化財を生み出すような労働者の教育といったところに身を投じていくんですね。

ちょうど去年がラスキンの生誕200年ということもあって、ブームになっているところもあるんですけど、今の時代性にも合って注目されています。

表現の裏側にある「精神」を見る

ラスキンの話を前提として、私の最近の活動を紹介したいと思います。

京都市の隣に亀岡市という街があります。保津川下りなどで有名です。ここの「かめおか霧の芸術祭」を紹介します。亀岡市は霧がものすごくよく出るんですけど、そこで芸術祭をやっています。その芸術祭を監修しているのが松井利夫先生。陶芸家の先生で、世界的にも評価されている陶芸作家、現代芸術家ですけど、実は私のゼミの先生でして、その関係もあって、ここのお手伝いをいまやろうとしているところです。

松井先生はこんなふうに言うんですね。

作品だけが芸術ではありません。生命や魂をよりいっそう輝かす『技術』のことを、そう呼びましょう。美味しい野菜を育てることができる人、渓流を綱渡りのように舟を操ることができる人、悲しい人に寄り添える人、鳥と話せる人、へそで茶を沸かせる人、そんな芸術家がいっぱい暮らす霧の盆地で『かめおか霧の芸術祭』が始まります。

日々の生活の中にアートがあるというのは、社会彫刻といわれます。「日々の社会の中で、われわれの活動ひとつひとつがアートになっているんだ」ということなんですね。そういうこともラスキンは言っていたんですけど、そのラスキンの話を図式化していきます。たとえば、ゴシック彫刻は「荒々しい」表現であり、その裏には精神があって、その精神を感じ取る。ここにラスキンの独創性がありました

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こういう感受性を持った人、たとえば、岡本太郎もそうですが、岡本太郎自身、ちょっと冗談めかして「私が縄文土器の発見者だ」と言っています。縄文土器を発見した人ではもちろんないんですけど(もちろんその前に出土しています)。

もともと、縄文土器というのは考古学の資料のひとつで、芸術性というのはまったく評価されていませんでした。ところが、岡本太郎は、それを見て「ああ、これはすごい」と。火焔型土器なんかは、もうゴシック的な感じなんですよね。グワーッと燃え上がる炎のように、むだな装飾がしてある。もちろん信仰という意味もあったと思います。自然に対する信仰がああいうものをつくらせた。と同時に、職人たちが腕を競い合うように、また自分たちが没頭して、ウワーッとすごいものを作っちゃうわけですね。そういうふうな精神を見るということが実は重要である、と。

交換価値ではなく固有価値に着目する

ラスキンは、経済学者として評価されているという話をしましたが、経済学者として評価されているひとつのキーワードとして、こんな価値の議論があります。たとえばこれ、どれぐらいの価値だと思います?(プレゼン用のポインタを掲げて)いくらぐらいだと思います?  1000円? 2000円? もうちょっとしますね、1万円ぐらいするんです。川井さん(オリンピアを撮影中のカメラマン)、このカメラっていくらぐらいするんですか? 30万円! すごいですね。

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というように、ふつうは(すごく古い古典的な経済学のなかでは)、価値があるかどうかは、価格で決めるわけです。いわゆる「交換価値」です。だから、価値が計られるのは、あくまで30万円払って30万円で譲り受けた瞬間(価値が顕在化する瞬間)で、それを古典的な経済学でずっと議論していた、ということです。「需要曲線とか供給曲線とかで価格が決まる」ということをやってきたんです。

ところが、1800年代後半、こんな時期にラスキンは「ものには固有価値があるんだ」という言い方をしたんです。このキヤノンのデジタルビデオカメラを、本当に使いこなせる人が使えば、めちゃくちゃ価値があるわけです。30万円どころじゃないですよね。川井さんはこれでめちゃくちゃ稼いでいる……そんなに稼いでいない?(笑)すみません(笑)。でも、このカメラは、川井さんが使うことで非常に創造性の高い作品を生み出しています。このカメラを素人の人が持っていてもあまり意味がないわけですね。そういう「固有価値というのがあるんだ」という議論をしたんです。

この固有価値の定義を紹介します。

「自然や芸術文化に内在する『美の観念』としての『生を支える絶対的な力』であるとされる。つまり、固有価値の内在する自然を維持し、その美を芸術文化すなわちアートとして積極的に創造することで、本質的な「富」が増殖すると考える点が、ラスキンの価値概念の特徴である。」 

自然というのは、先ほど言ったターナーの風景画を評価した流れなんですけど、「自然にある、内在する価値をちゃんと絵に写し取る」。そのあたりのことを、ラスキンは非常に重視しました。これには、自然も入ります。

この「生を支える絶対的な力」というのは、ひとつは、お米をとってお米でお腹を満たしてそれで生きていく。これも固有価値なんです。同時に、田園風景、お米をつくっている風景が美しくて、見ていると一日のストレスがふっと和らぐ。これも力なんですね、固有価値なんです。こういった、われわれが生きていくために必要なエネルギーがもらえるような力のことを「生を支える絶対的な力」である、と言っています。

つまり、これはいま現在、資本主義(その富というのを金額で計算している)のもとでの概念とは、まったく逆の発想ですね。里山での暮らしがどれだけ豊かかというのは、ラスキンの固有価値という議論を踏まえれば、評価ができるようになるわけです。いままでの経済的な観念をそのまま適用すると、里山の暮らしは貧しい(GDPがない)わけです。物々交換だから、それも統計に上がってこない。「なんて貧しいんだ」ということになるんですけど、実は、それはすごく豊かであって、しかもその富が増殖しているんだという、そういう議論をするんですね。

ただし、ですよ。芸術作品もそうですけど、見る人によって価値があったり、カメラも、使う人によって価値があったりなかったりするわけですね。それがどういうことなのかというと、たとえば、このサンゴ礁。固有価値があります。美しいです。魚にとってはエサ(プランクトン)がいっぱいあるという、そういう場所としての固有価値があります。動物や植物や人にとって、また、人によって固有価値の見えるところがぜんぜん違うわけですね。このダイバーは潜っていきながらどんな価値を受容する能力があるか、それが重要だ、ということになったんです。

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固有価値を認める享受能力を高める

そして、このことをいまのビジネスモデルの議論でいえば、交換価値じゃなくて利用価値という議論になっていて、それは「サービス・ドミナント・ロジック」という言い方をします。

つまり、サービスが提供されていくところでどんな価値を生んでいるか。「グッズ・ドミナント・ロジック」というのは、交換する瞬間の価値なんです。最新の経済学でやっている(2000年ごろから議論されていますけど)、サービス・ドミナント・ロジックというのは、まさにここのロジックを議論しているんです。

取引の形態が変わったわけですよね。売り切って終わりではなくて、「月額いくら」とかいうかたちで利用するようになりました。みなさんも、もうほとんどいま、アプリとかサービスを月額で使うようになっている。どんどん、どんどん、グッズ・ドミナントではなくて、サービス・ドミナントになっている。そんな議論ともつながっていく話です。

ラスキンは当時、「有効価値を拡大していくためには、享受能力を高めないといけない」と、労働者大学から招聘を受けて、なんと無償で授業をやります。当時、すごく売れっ子の作家です。「労働者のための教育をしていかないといけない。機械に使われているばかりの単純労働ではダメだ」と。しかも、個別対応したりするので、最初二時間だった授業が、三時間、四時間とどんどん延びるんですね。

どんな授業をやったのかというと、ラスキン自身が絵を描きますから、その写生、見たものをそのまま描き取るというデッサンを教えました。そのときにラスキンが言っていたのは、「ものをそのまま見るという、その見る力こそが享受能力の大きな要素だ」ということだったんです。そういった享受能力を、どんどん高めていくべきだと、「正しく見るための素描のクラス」というのをやっていたんです。

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存在論から認識論への転換(哲学)

こういった議論の哲学的な背景を見ていきたいと思います。「いままで存在について議論していたけど、認識というものにテーマを移したほうがいい」という文脈のなかで、哲学のベーシックとなる議論を整備したのがカントです。

カントはどういうことを言ったかというと、人がリンゴを見るときに、「赤いリンゴがある」「リンゴが存在している」と思いますよね。「ああ、確かにそこにある」と。ところが、その当時いろいろ議論がありまして、「このリンゴが本当にあるかどうかはわからない」というんです(イギリス経験論)。

「赤いリンゴのようなものを私が認識していることはたしかだけど、リンゴが(本当にここに)あるかどうかはわからない」と。17世紀、18世紀の話だったら、「何を言っているんだ」という話ですけど、いまはARとかVRとかCGもありますし、私たちは映画館で見ているものが本当にそこにあるって信じていないですよね? つまり、「これは、イリュージョンなんじゃないか」ということなんです。そういう議論があって、カントは困りました。

存在から認識へ

それまでカントは、どちらかというと「存在がある」という前提に立っていたんです。形而上学という言葉がありますけど、あれは、すごい悪口だったんです。「地に足のついていない形而上学の話ばかりして」と。形而上学って、メタフィジックスなので、物理的な世界じゃなくて、なんというか、天国みたいな世界の話をしていたんです。要は、神様の視点に立って、客観的な話ばかりする、と。昔は、アリストテレスもプラトンも(プラトンが特にそうなんですけど)、イデア、客観のような、理念主導型でやってきました。

ちょっと余談になりますが、理念主導でやっているのが、EUです。極めて理念主導で、「総会の中では各国の国旗は出しちゃいけません」というルールがあるんですね。「国じゃなくて、ヨーロッパとして一体になろう」と。ところが、イギリスが脱退するときにイギリスの議員団はイギリスの国旗を振って「さようならー」って言ったんですね。みなさん、動画見ましたよね? すごくおもしろかったですけどね。

イギリスは、ああいう理念をまったく信じていないんですね。実は、ブリグジットの背景には、イギリス経験論(憲法も「慣習法」といって、判例をずっと集めていって、それを憲法としてみなしている)があります。理念主導じゃないイギリスの経験主義的に「EUに入って実際どうなったか」みたいなことを見ていくと、「経済はどんどん悪くなるし、しかも移民も入ってくる」と。というわけでブリグジットしちゃうのは、イギリスらしいわけですね。


言葉によって環世界を認知する

さて、大雑把にいうと、主観で考えるイギリス経験論と、客観で考える大陸合理論の調整を図った、というのがカントの役割なんです。ただ、基本的には神様の話、神様の視点になって存在を議論するのではなくて、「あくまで人が、私がどう認識するかを話していくべきだ」ということになったんですね。

それを受けて、ユクスキュルという人が「環世界」という話をしました。「人だけじゃないでしょう」ということです。ある種類のノミは、獲物が来るまでじっと待つんですが、そのときにエネルギーを使わないように、ほぼ仮死状態なんです。観察によれば、待ち続けてなんと一八年生き延びたノミがいる、というんですね。そのノミの世界では、二酸化炭素を吐いている体温の高い変なものが来たときに勘づいて、そこにピュッと飛び乗って血を吸う。彼らの感じている世界と人間が感じている世界はぜんぜん違いますね。

さっきのカントの話をもっと進めれば、人が見ているものはちょっとした色味の違いはあるかもしれない。この人が見ている赤とこの人が見ている赤の感覚が違う、というのはありますよね。ファッションを見たって、「あの人はカッコいいと言うけど、私はダサいと思う」みたいな感覚はありますけど、動物はさらに違うわけです。

「まるでシャボン玉のように」とユクスキュルは言うんですけど、「その人が、その動物や虫が感じている世界がある」と。こういうのを「環世界」と呼んだんです。知覚している世界があり、さらに、ノミがピュンと乗って血を吸うという、自分たちが作用を起こす、作用世界があって、この連動が環世界というわけです

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さきほどのインプロで「イエスアンド」というキーワードがありました。「みなさんが目に見えているものを、まずイエスで素直に受け止めましょう」と。インプロは、環世界を変えていくアプローチです。イエスで知覚を変えて、アンドで自分が作用を及ぼす、ということなんです。作用を及ぼさない限りは、やっぱりダメなんですね。

そういう環世界を象徴する(どんなふうに世の中を見ている象徴する)のが、「言葉」です。たとえば、われわれ日本人は「雨」を何種類ぐらいに言い分けているか、ご存知ですか。「春雨」、「秋雨」「ゲリラ豪雨」みたいな、最近できた言葉もあります。「夕立」とか、情緒ある言葉もいろいろありますけど、これ、何種類ぐらいだと思います? ウェブに載っていた情報では(なのでたしかかどうかわからないですけど)、400種類あるらしいです。そこまでいかなくても、日常的に10種類以上は使ってますよね。

日本の温暖湿潤気候のなかで世界を感じ取っているので、これだけの言葉を使い分けているんですね。言葉があるから、またその世界を認知できるんです。「知覚して、それで作用を及ぼす」という環境との関係のなかで400種類を見分けている。これが砂漠地帯に行けば、雨の種類なんてないですよね。滅多に降らないから。というように、「世界を認知しているのは、言語である」と。究極にいえば、カントの議論はそこまでいくんですね。

母語による見えている世界の違い

さて。翻訳の話も出ました。「自動翻訳が出たら、それで解決するのか?」。実はそうではない、という話に少し触れておきます。

「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった」という、有名な川端康成の「雪国」の一説。これを、英語に訳すと「The train came out of the long tunnel into the snow country.」となります。おもしろいのが、アメリカ人が読んだのと日本人が読んだのとでは、思い浮かぶ情景がぜんぜん違うんです。これはQuoraの質問から引用しています。

日本語脳だと、「トンネルの前はぜんぜん雪国じゃなかったけど、抜けた途端にワーッと雪が広がる」風景を思い出すと思います。

英語脳の場合は、「雪国にThe trainが long tunnelからcame outしてきた」みたいなことで、実は、この雪国の出だしの驚きをまったく共有していないんです。だから、この一節のすごさというのは、日本人にはわかるけど、身体的にイングリッシュスピーカーには理解できない、ということなんです。

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しかもおもしろいのは、この(Quoraの)回答者の長男(一六歳)は、「英語が母語、日本語は聞いてほとんど理解できるが、発話は簡単な単語のみ。八歳まで日本にいました」という状況で、「数回くりかえして日本語原文を聞かせた結果、日本語自体は理解できているにも関わらず、絵は描けない、という。→最終的に『誰がトンネルを抜けたの?』と質問してきた」というんです。

われわれは、そんな質問はしないですよね。日本語の文章を聞かせたんですよ。英語だと、たしかにThe trainといわれているので、自分が乗っているかどうかわからない。「自分は乗っているの?」とは聞くかもしれません。

というように、あの日本語を読んでも、身体的に見えている世界が違うんです。そういうふうに、実は環世界みたいなことも含めて考えると、言語を使ってどのように世界を認識しているかということが身体的に定着していて、見えている世界がぜんぜん違う、ということです。

翻訳はできるんですよ、でも、身体化されていないと、言葉がわかってもその内実というのが理解できない、ということがあり得るわけですよね。

そして、みなさんご存じの共通「言語」といっている九つのブロック。これは、雨を400種類で言い分けましょうというのと同じように、ビジネスモデルという非常にあやふやで抽象的で、理解しがたいものを言語化したものです。言語というのは構造化することなんですね。だから共通言語をつくった。構造でちゃんと理解し合う、ということです。

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存在論から認識論への転換(アート)

ここからは、今日のテーマである、アートレクチャーを。私は、京都造形芸術大学(現 京都芸術大学)博士課程にいるんですけど、こんなところでこんなことをしゃべっていると知られたら、「おまえごときが何を言うんだ」みたいなことで、袋叩きに遭いかねないので心配ではあるんですけど(笑)、いくつかのアート作品をご紹介して、これをどんなふうに見ることができるのか、というのを紹介したいと思います。「これを知っていると現代アートがよくわかる」と、そういう建て付けです。

まず近代までの絵画と現代とで何が変わったか。存在論から認識論に変わりました。先ほど言ったカントの話がアートの世界に降りてきたのが、19世紀ぐらい。どんなことが起こったのか。たとえば、モネの『積みわら』(1890年頃)という作品があります。(昨年、約120億円で取引されて、印象派の世界最高記録といわれました)

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モネ「積みわら」1890年

この頃、「人間は三原色で色を認識している」という科学的発見がありました。そこで印象派の人たちは、できるだけ人間が認識している色を再現しようとした。ところが、光は混ぜ合わせると白くなって明るくなるんですが、絵の具は混ぜ合わせると濁っちゃうわけです。なので、印象派の人たちは、できるだけ絵の具の色を混ぜずに色を再現しようと細かく見ていった。それでこういうブラウン管テレビのあのドットのような表現をした、ということなんです。

これこそが、客観的な事実を描くというよりは、われわれがそう「認識している」という認識論に移った、ということなんですよ。だから、この段階で絵画が「実物を正確に表現しているか、魅力的に表現しているか」といういわゆる存在論から、「どう認識しているか」のほうに移ったんです。

このデュシャンの『泉』という作品は(もちろん既製品をどう転用したかという視点もありますが)、一方で、「あなたはこれをどう認識するんですか」と問いかけたんです。認識論のほうに舵を取った、とも言えます。

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マルセル・デュシャン「泉」1917年

それから、ジョン・ケージという作曲家がいます。チャンス・オペレーションという、偶然を生かす作曲法が有名です。特に中国の易に熱中して、易を使って作曲をするんですけど、なかでも鈴木大拙の禅の話に感銘を受けて、それで作ったのが「4分33秒」(ピアノ協奏曲)という曲であると言われています。ご存じの方も多いと思いますが、4分33秒の間、ピアニストは何も弾かないんですね。何も弾かない「無」、禅的に言えば「空」の曲なんですけど、実は空の曲でありながら、当然ハプニング的に咳払いの音や観客のざわざわする音も聞こえたりします。

本質的には何もない(演奏していない)にも関わらず、われわれは音を認識してしまう、聞いてしまう。ピアノから奏でられる音じゃなくて、われわれの知覚、認識のほうに注目を集めようとした作品なんです。

おもしろいのは、ちゃんと形式(第一楽章、第二楽章、第三楽章まで)があることなんです。ジョン・ケージのチャンス・オペレーションの後に、「ハプニング」という「何の形式もないなかで何が起こるかわからない」みたいなことをやるようなアートムーブメントがあるんですけど、ジョン・ケージはそれとはかなり一線を画して、われわれが慣れ親しんだ第一楽章、第二楽章みたいな形式のなかで、「何も音が奏でられないときにも、われわれは何かを聞いてしまう」ということを伝えました。

現代芸術は認識論を問う

荒川修作という人の作品をご紹介したいと思います。これは、岐阜県にある「養老天命反転地」です。

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荒川修作、マドリン・ギンズ『養老天命反転地』1995年
https://www.yoro-park.com/sp/facility-map/hantenchi/

ここは、最近はインスタ映えする場所として写真を撮ったりする人が増えていますが、ものすごい急角度で見学するときは、ケガをしないように運動靴の貸し出しがあるくらいです。ふつうはこんな斜めになっていないようなところが斜めになっていて、違和感をものすごく感じるんです。現代芸術というのは、基本的には美しいものではなくて、違和感を感じるものをつくるんですけど、これはなぜかというと、客観的な存在をいうのではなくて、認識論を問おうとしているからです。

だから、これもある種、ジョン・ケージのあの無音の「4分33秒」の延長線上にあります。われわれがどう認識するかを問いかけているんです。

荒川修作は、それによって寿命が延びて永遠の命を得られる、と考えて作品をつくっています。彼自身はすでに亡くなられたんですけど、彼の言っていることは、永遠の命を得るためにはこうしなくてはいけない、ということだったんですね。

この「寿命を延ばす家」という作品、斜めになっていたりして、むちゃくちゃ暮らしにくい家です。ふつうにこうやって平面で水平なところで暮らしていると、ぜんぜん楽ですよね。何も意識しなくていい。つまり、「われわれの知覚作用はほとんどアクティブにならずに、脳をダランと暮らしていける。そんなことで、本当に生命がイキイキと生きていけるのか」と。

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荒川修作、マドリン・ギンズ
『バイオスクリーブ・ハウス:寿命を延ばす家』2008年

ジョン・ラスキンの話に戻れば、ふだんは自然の美しさを見ないでいるんだけど、パッとそれを目にしたときに、それをちゃんと感受して生きる力に変えていく、そういう力を得ていくほうが寿命が延ばせるんじゃないか、と。まぁ、あえて下世話な言い方をしていますけど、そういうふうなことで、ものすごく暮らしにくい家をつくるわけですね。さきほどの環世界、それこそ「ノミが血を吸える獲物が来るのを18年待つ」というような緊張感の中で身体を呼び覚ます、みたいなことをやっているんです。

基本的に現代芸術というのは、こういう身体性が非常に色濃く出てくるので、まぁあんまり心地よくない。でも、その心地よくない自分の感覚が、実は作品のひとつの鑑賞ポイントになったりする、ということなんです。

身体性を軸にしたアプローチ

存在論から認識論に変わった(1900年ぐらいを境に変わっていった)ところを認識すると、すごく現代芸術が見やすくなります。

これは先ほどの荒川修作の話です。

『人間は常に不安定な状態で生活すべきだ』とふたりは考え、『精神的・身体的な刺激を増やすような建物を設計すれば、人間の寿命を永遠に延ばすことができる』と仮説をたてた。彼らが設計した住居は床と壁が垂直に交わることなく、対称性が欠如し、凸凹の床も天井も傾いている。こうした住居は免疫システムを刺激し、マインドをシャープにしてくれる。その結果、人間を不死へと導くというのだ。

これは、なんとなく、わかりますよね。つまり、環境のなかに自己がいて、環境との刺激的な関係をどうつくっていくのか。

また、逆のアプローチも紹介しておきたいと思います。これはうちのオフィスにある椅子「ラウンディッシュ」という椅子です。

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オフィスの椅子を決めるのに、ショールームに行って、座り心地を確かめてから買いました。ラウンディッシュという名前のとおり、背もたれがかなり丸みを帯びています。みなさんがいま座っているものと比べていただくと、そうとう曲がっていることがわかると思います。座ると、まるで自分を包み込むようになって、ちょっとしたソファーに座っているぐらいの心地よさがあります。このデザインをてがけた深澤直人さんは、デザインをするときに、「行為に相即するデザイン」つまり、「行為なのかデザインなのかわからない、その境目がないようなデザインをしていくんだ」という環境設計をしているそうです。これは、荒川修作がやっていることと逆ではあるんですけど、ただ、どちらにしても、「身体性」が軸になっているといえます。

私は、いまお能を習っていまして、安田先生の本の中にも登場する佐野登先生という先生についています。能舞台というのが、実は身体に相即するというか、荒川修作が言っているように(能舞台は斜めにはなっていないですけれど)、能舞台に上がると、非常に緊張感があって、身体がハッとなるわけですね。それは、荒川修作の言葉を借りると、免疫システムがバッと起動するような、そういう空間になっている。(と、素人である自分が言及するには恐縮ですが)そういう空間自体がすごく重要だ、ということです。

法人の環世界

さて、ここでビジネスモデル・キャンバスとつなげていきたいと思います。先ほど言いましたように、ビジネスモデル・キャンバスは9つのブロックでビジネスモデルを認知する仕組みです。

では、ビジネスモデル・キャンバスで考えたときに、どんな身体的な行為が必要なのか。前提として、これは認知モデルでしたね。

先日、英語版が発売された、「Testing Business Ideas」というこの本が、そのビジネスモデルを実際に作用させる本になっています。これがあって円環が閉じられる。言ってみれば、ビジネスを主体としての法人の環世界ができあがる、ということです。これが先ほど言った「イエスアンド」ということです。イエスで受け入れて、アンドで実際に作用させてみる。その結果をまた認知していくというプロセス。

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リーン・スタートアップ、これは試してみないとわからない、という議論なんですが、日本人的に言えば、「少し瞑想すれば、わかることはわかる」という感じがありますよね。禅とか能とか、そっち方面から日本人が把握する、というようなことも入れたいな、と思います。余談ですけどね。そんな感じのことも考えつつ、「認知モデルをどう豊かにしていくかというところを、実行と合わせてやっていく」ということになるだろう、と思います。

認識と実践がセットになったものが文化である

私は、文化財保護も専門のひとつで、「文化財をどう活用して、その地域を活性化するか」ということに取り組んでいます。

文化財、いろいろな定義がありますが、池田光穂さんという方の定義をご紹介します。(注4)

人間が後天的に学ぶことができ、集団が創造し継承している(いた)認識と実践のゆるやかな体系(ないしは、そう理解できる概念上の構築物)のこと(池田光穂)
人間が後天的に学ぶことができ

そうですね、先天的なものじゃない。だから、白人であっても、日本に生まれ育てば日本人になるわけです。これを「文化構成主義」といいます。後天的に学ぶことができる。

集団が創造し継承している(いた)

過去の文化だったらそう(過去形)ですね。

認識と実践のゆるやかな体系のこと。

認識と実践。認識と行為。「これがセットになったものが文化である」と。だから、認識だけじゃない、ということなんですね。

ラスキンはゴシック建築に対して、まさにそれを認識するだけじゃなくて、実践して作用させていくというところに教育を施していった。これによって、固有価値から有効価値が出てくる、という議論をしたわけです。

これは私の定義です。

「アートは、その人の主体の認知と行為に変化を加える」

まさに荒川修作もやっていたことですし、さまざまな現代芸術が目的としているところです。認知と行為・行動に変化を与える。ただ、アートというのは個人にとどまらずに、集団の文化の中で、われわれが(雨を400種類数えているように)どう環世界を変えていくのか。そういう実践活動である。文化づくりの作法だ、と考えています。

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アートで価値を共有して環世界を共有する人を拡大する

ビジネスモデル・キャンバスでは、真ん中に「価値提案」がありますね。この価値についてお客さんやパートナーも含めて、その価値を価値と感じてくれるように、われわれが考えていかないといけない。

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たとえば、SDDsのように、消費者がそれまであんまり意識していなかったけど、企業の取り組みなどによって、それを価値と考えてくれるようになる。固有価値から認知能力、享受する能力が高まって、それで有効価値が出てくるようなことです。

企業のビジネスモデル・キャンバスでいうと、カスタマーセグメントとキーパートナーというのは、半分、外(縁側)なんですね。パートナーは、社員じゃない。けれども、価値を実現するために関わっている、縁側にいる人たち。

そういった人たちに、アートで価値の共有をして、環世界を共有する人を拡大していくというようなビジネスモデルの役割を改めて認識していく必要がある。そういう観点から「アートがひらくビジネスモデル」(講演タイトル)と言いました。

価値を共感して認めてくれる人を増やす。それは、ユクスキュルの話でいえば、環世界を共有して、同じように「ああ、こういうことがあった、価値がある」と認識してくれる人のことだし、ラスキン的にいえば、それは固有価値から有効価値を見いだせる享受する能力を持った人のことになります。こういう文化議論というのがこれからのビジネスモデル構築には必要なのかな、と思います。

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2020年2月9日 一般社団法人ビジネスモデルイノベーション協会主催「ビジネスモデルオリンピア2020 ー アートがひらくビジネスモデル」での講演を一部加筆修正してお届けしました。(編集 片岡峰子)







未来のイノベーションを生み出す人に向けて、世界をInspireする人やできごとを取り上げてお届けしたいと思っています。 どうぞよろしくお願いします。