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桃源郷の寓話が示唆する私たちが知らぬ間に失っている大切なもの

『風車祭』(池上永一/文藝春秋)

(作品タイトルの読みは「かじまやー」。沖縄地方で行われる長寿の祝いのこと)
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「アギジャビヨー!(どひゃあ!)」 この、爽快にして濃密な物語を読み上げた人なら、まずはそんな沖縄式叫びを発したくなるはずだ。
文庫本にして771ページの全編を貫く番外パワーに満ちた笑いと、筋金入りの明朗闊達さ。かくも長尺な大長編小説にもかかわらず、読者の首ったけを最後まで掴んで放さない語りの妙は、南の島の魔法のように奇跡的な輝きを放っている。
舞台は沖縄の石垣島。246年間もマブイ(魂)の形で島の片隅をさすらう娘ピシャーマに出会った高校生の武志は、そのショックで自らのマブイを「落っことして」しまう。物語は、マブイを落とした少年と生身を持たぬマブイから後世へ帰りたいと願う娘の淡い恋を軸に展開する。
といっても、南の島の寓話は、東京式のエモいチルいラブストーリーとはひと味もふた味も異なる。

この石垣島の恋バナに波乱と混乱と災いを招くべくカラんでくるのが97歳のオバァのフジ。「金も愛も権力も、そんなものは糞である」とひたすら長寿に狂気のごとき執念を燃やすフジは、80歳の娘トミに世話をされ、62歳の孫娘を含む3人で近所から“地上初の理想の老人施設”と呼ばれる家庭を支配している。

やがてフジはおのれよりも遥かに長生きをするピシャーマの存在に嫉妬と畏敬の念を抱き、物語を混沌の淵へと引き込む。さらに武志を慕い処女膜の代りにマブイを失う同級生の睦子、その妹で解剖ごっこマニアの郁子に加え、洗濯好きの6本足の妖怪豚ギーギー、福をもたらす酒好き浮浪者兄弟チーチーマーチューとターチーマーチュー、町角の残飯を食い漁り天気予報を唱える残飯オバァ、島の大災害を食い止めようと奔走するツカサ(巫女)たちが道化となって、めくるめく異界の爆笑ストーリーが彩られる。

本書が見事なのは、異人たちの荒唐無稽な活躍を通して、滑稽な寓話を神話的地誌へと編み上げていく壮大なカラクリにある。背景をなす南の島の祝祭や唄、風や光や温度や色彩が、日本本島の都会や郊外にはとうに失われた土俗の美を醸し出していること。自然と人と神が融合する沖縄の聖性が、物語を神話的レベルにまで引き上げ、壮大な叙事詩を描いている。そんな土着の磁力に引き寄せられながら、主人公の武志が、いかにして大人への階段を上っていくかを漱石の『三四郎』のように読んでみると、これは精神の成長ストーリーなのだと見えてくる。石垣島でなければなしえない著者の成果がそこにある。

本書では明確に“沖縄人”と“日本人”を区別する著者は、石垣島の沖縄人の暮らしにはいまもなお家は祖霊が守るところで、自由な都会にあこがれて(島の)外へノコノコ出ていく若者は祖先から受け継いだマブイを無視しているのも同然だと登場人物に語らせる。“マブイを落とす”という現象ひとつとっても、それが「知らないうちに起こってしまう」ことだといわれると、現代の“日本人”が知らぬ間にとても大切なものを失っている喩と思わずにはいられない。桃源郷の寓話は示唆に満ちている。

著者の芸達者で巨大な創造力に導かれ、読者は隠れ里の母性に抱かれるごとく満足し果てしなく読み進むが、結末の坂を転げるうち、思わず涙をこぼし、感動に胸を打ち抜かれる。
最後の最後まで読者を裏切ることのないサービス満点のエンターテイメント。


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