『銀の耳かき』

高速道路は車内にいかなる走行音も伝えなかった。
タクシーにゆられながら、私は恋人に耳掃除をしてもらっている。細長い銀の棒は耳から脳へ至り、私に奇妙な幻影を見せる。

私は友人らと能楽堂で能を観ていた。演目は分からない。傍らには恋人もいるが、ここでは私自身が耳かきをしている。 だが私は、幽玄の美より蝸牛の中に興味があったらしく、力を入れ過ぎて銀の棒を投げ飛ばしてしまった。しかもあろうことか本舞台の中へ。

一瞬間、耳かきが作る光の円盤を観た異国の観客たちは、厳かな空気を汚された腹いせに、パノプティコンさながらの監視網を築いた。そこには友人や恋人も参入していた筈だ。 私はその監視網をかい潜るようにして、どうにか白洲梯子の横へ接近した。だが銀の棒は、能楽師の袖に入り込んでしまったようで、どうにも回収できそうになかった。冷静に考えてみれば上演後に取り戻せばいいだけなのだが、その時の私は、背後に撮影班もいるというのに、第三のワキよろしく、緩慢な動きで本舞台へ繰り出すほうを選択してしまう。

舞台上から仰ぎ見るシテは少し悲し気に見えたが、後方に正座し、凝っと太鼓を睨みつけている初老の囃子方は鬼の形相だった。
ようやく銀色の棒を回収して席に戻ると、能面さながらの無表情で恋人と友人が迎え入れる。

――後で言いたいことがあります。

友人はそれだけ耳打ちすると、再び沈黙の底へ消えた。 私は辛くなり、またぞろ現実逃避するかのように眠った。

と、そこで目が覚めた。無音のタクシーの中では、恋人がまだ耳掃除をしている。 私は彼女に、今しがた見た夢の内容を語った。

――知ってるわ。だって私もいたもん。耳かきを取り戻すために舞台におどり出た時は、もう別れようと思ったわ。
――見ていたのか？　おれの夢を。
――うん。だってこれも夢だもの。

いうと彼女は、私の耳の奥へグッと耳かきを刺した。