2 気づいたらこっそりそこにいた / ぐっち

 「早く怪獣が来るといいな」
結婚してから何度となく妻と言っていたことだ。怪獣とは我々のいわゆるスラングのようなもので、要するに赤ちゃんのことだ。
すぐ大声で泣きわめくし、何でもかんでも食べてしまうし、何より日本語が通じない。言葉がコミュニケーションのほぼすべてである我々にとっては怪獣以外の何物でもない。
そんな謎だらけの怪獣がとうとう我が家にもやってくることになった。これはそんな怪獣と我々夫婦の物語である。
最後に怪獣とは150パーセントの愛情を込めて言っていることだけは付け加えておく。

 「ねえ生理来ないんだけど」
晩御飯の準備をしながら何気なく妻は言った。まるで今日のご飯何にしようかというテンションで。あまりの何気なさに、テレビに聴き入っていた僕はそのままスルーしそうになったほどだ。
その言葉の意味を理解するのに数秒かかった後、その返事をするのにさらにまた数秒。
「きたかもな」
ようやく出てきた言葉がその一言だった。
 以前にもこうしたことは何度かあった。妻のいわゆるお腹が痛い時期は、リズム通りにこないことがしばしばあったからだ。ただ、理由もなく今回はいつものそれとは違うんじゃないかという気がしていた。
 クリニックは妻とインターネットで探した。とはいえほとんど妻が決めたようなものだが。今後通うことになったとしても家からそれほど遠くなく、女性の医師が診察してくれるところ。ネットの口コミも見てそこに決めた。
旅行先のホテルや飲食店を探すのは得意だが、病院のしかもレディースクリニックとなるとさっぱりだ。なるほど、男は役に立たないと言っていた先輩の言葉が蘇る。今後この言葉が何度頭の中を駆け巡ったことか…。
 クリニックを訪れた日は妻の方が緊張していたと思う。それは当然だ。初めての告白を聞かされる場所かもしれないし、そもそも一人間として心当たりのある行為をしたのかと思われるという気恥ずかしさもあっただろう。友人や両親に妊娠検査薬を見てもらわなかったのは間違いなくこのためだ。
話を戻そう。コロナの影響で一人で来院してほしいというクリニックの方針もあって、僕は受付の看護師さんに妻を引き渡した後すごすごと退産した。僕自身もレディースクリニックの待合室でずっと待つというのは何となく落ち着かないものがあって、正直ほっとしたのを覚えている。今となっては妻の付き添いで行った産婦人科の待合室でさえ、堂々と寝てしまうぐらいの度胸はついたが。
クリニックが入っているビルのすぐ隣にいかにもな準喫茶があって、そこで時間をつぶすことにした。
妻からの電話が鳴ったのはそれから15分と経っていなかった。
「ちょっとさっきのクリニックに来てもらえる」
その瞬間すべてを察した。明らかに緊張感のある声だった。まだ3分の1ほどしか飲んでいなかった熱いカフェオレをなんとか流し込んで、クリニックに戻った。
 診察室には妻と医師が向かい合っていた。挨拶もそこそこに僕が椅子に座るのが早いか
「5週目ですね」
と医師は言った。物腰が柔らかくて優しそうな雰囲気とは裏腹に、言葉にははっきりとした強さがあった。
そこで改めて僕も含めた意思確認があった。生みますね、と。
改めてというのは後に妻から聞いた話だが、最初に妊娠を告げられた際にもまずは妻だけに同じ意思確認があったそうだ。いろんな事情があるのだろう。むろん我々は一ミリの迷いもなく大きく頷いた。
 その日は京都にあるホテルで祝杯を挙げた。祝杯といってもこの日から妻は自動的に禁酒になってしまったわけだが。
ちょうどその日は、以前から気になっていた梅小路にあるホテルエミオン京都に二人で宿泊する予定にしていた。まさかここで怪獣祝いをすることになるとは思ってもみなかった。
レストランで天ぷらをお腹いっぱいいただいて、父親として初めての一日を終えた。
 怪獣へ。ようこそ我々のところへ。これから長い付き合いになるけどよろしく。
(続く)

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